機に與《あづか》る人。其人の家《うち》に居《を》れば自然|海内《かいだい》の形勢も分かるであらう。私《わたくし》が京都を去つて大阪に來たのも一つは其の當時の形勢入求の趣意であるから、渡りに舟と喜んで、木城氏の所へ行つた。無論其時分は文學者にならう抔《など》といふ料見はない。(尤《もつと》も今も文學者のつもりでもないが。)むしろさういふ御目附、即ち當時の樞機に參する役人にならうと思つて居た。然しその時分の役人になるといふのは、今のそれとは心持に於いて違つて居る。其時分の我々は何處《どこ》迄も將軍家の譜代の家來だから、其の役人になるも、金を貰つて身を賣るではなく、主君なる將軍家に我が得た所を以て奉公をする。謂《いは》ゆる公儀の御役《おやく》に立たうといふ極《ごく》單純な考へであつた。然して此心は大抵な人が皆同じであつたらうと思つて居る。
 兎角するうちに、木城氏は關《くわん》八|州《しう》の荒地《くわうち》開墾御用係といふものを命ぜられた。そして御勘定奉行《ごかんぢやうぶぎやう》の小栗下總守《をぐりしもふさのかみ》といふ人と一緒に、大阪から江戸に下つて來た。私《わし》もその一行の中《うち》に居た。どういふ譯で關八州の開墾をするかといふと、其時分幕府の基礎が大分《だいぶ》怪しくなつて來たので、木城氏や小栗氏の考へでは、遠からぬ中《うち》に江戸と京都と干戈|相見《あいま》みゆる時が來るであらう、愈々《いよ/\》然《さ》うなつたら仙臺《せんだい》、會津《あいづ》庄内《しようない》と東北の同盟を結んで、東海道は箱根、木曾街道は碓井《うすゐ》、この両口《りようぐち》を堅固に守つて、天下の形勢を見るより外はないといふ、つまり箱根から向う、碓井から先は、止《や》むを得ずんば打捨《うつち》やる覺悟であつたので、さてこそ關八州を開墾して兵食を足さうといふ考へが起つたのである。隨分泥棒を捕《つか》まへて繩を綯《な》ふと云ふやうな話であるが、然も其時は事實あれ程の急劇《きふげき》な變化、即ち三年後に江戸が東京になる程の變化が來やうとは思はなかつたので、悲しくても、まだ五年や十年の幕府の命脉はあるだらうと思つて居た。
 そこで農事に委しい人を頼まうといふことになつて相馬《さうま》藩から二|宮《みや》金《きん》二|郎《らう》(尊徳《そんとく》翁の子《し》、其頃五十餘の大兵《だいへう》な人)を喚《
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