々の混雜が、雨の軒端《のきば》に陰にしめつたどよみを響かしてゐた。表から差覗《さしのぞ》かれる障子は何所も彼所《かしこ》も開け放されて、人の着物の黒や縞が塊《かた》まり合つて椽の外にその端を垂らしてゐた。裏手の格子戸の内に泥のついた下駄がいつぱいに脱ぎ散らしてあつた。みのるは臺所で見付けた昔馴染の老婢に木蓮を渡してから上《あが》り端《はな》の座敷の隅にそつと入つて坐つた。そこでは母親に殘された小さい小供たちが多勢の女の手に、悲しそうな言葉で可愛《いと》しまれながら抱かれてゐた。總領の娘も其所に交ぢつて、障子の外へ出たり入つたりする人々を眺めてゐた。昔みのるがお手玉を取つたり鞠を突いたりして遊び相手になつた總領の娘は、何年も親しく逢つた事のないみのるの顏を見ると、その眼を赤く腫らした蒼い顏に笑みを作つて挨拶した。みのるの眼はいつまでもこの娘の姿から離れなかつた。
「この子はあなたの眞似が上手。」
 みのるに然う云つて師匠が笑つた時は、まだ四才ぐらゐの子であつた。みのるの例《いつ》もするやうに風呂敷包みを持つて、氣取つたお辭儀をしてから、
「これはみのるたん[#「みのるたん」に傍点]だよ。」
と云つてみんなを笑はせた。幼ない時から高い鼻の上の方の兩端へ幾つも筋が出る樣な笑ひかたをする子であつた。みのるはこの娘のこゝまで成長して來たその背丈《せいだけ》の蔭に、自分の變つた短い月日を繰り返して見て果敢ない思ひをしずにはゐられなかつた。
「おい。」
 みのるは斯う呼ばれて振返ると、椽側に立つた義男は腮《あご》でみのるを招いてゐた。傍へ行くと義男は、
「これから社へ行つて香奠《かうでん》を借りてくるからね。」
と小さい聲で云つた。
「いくらなの。」
「五圓。」
 二人は笑ひながら斯う云ひ交はすと直ぐ別れた。みのるは其室《そこ》を出て彼方此方《あちこち》と師匠の姿を求めてゐるうちに、中途の薄暗い内廊下で初めて師匠に出逢つた。顏もはつきりとは見得ないその暗い中を通して、みのるは師匠の涙に漲つた聲を聞いたのであつた。
「あなたの身體はこの頃丈夫ですか。」
 師匠はみのるが別れて立たうとする時に斯う云つて尋ねた。みのるは昔の脆い師匠のおもかげを見た樣に思つてその返事が涙でふさがつてゐた。

       六

 その晩みのるは眠れなかつた。いつまでもその胸に思ひ出の綾が色を亂してこんがらかつてゐた。そうしてある春の日に師匠から送られた西洋すみれの花の匂ひが、みのるのその思ひ出に甘くまつはつて懷かしい思ひの血の鳴りを響かしてゐた。
 あのなつかしい師匠に離れてからもう何年になるだらうかと思つてみのるは數へて見た。師匠の手をはなれてからもう五年になつた。そうして師匠の慈愛に甘へて一途にその人を慕ひ騷いだ時からはもう八年の月日が經つてゐた。その頃のみのるの生命は、あの師匠の世態に研ぎ澄まされたやうな鋭い光りを含んだ小さい眼のうちにすつかりと包まれてゐたのであつた。その師匠の手をはなれてはみのるの心は何方へも向けどころのないものと思ひ込んでゐた。そうして船で毎日の樣に向島まで通つたみのるは行くにも歸るにも渡しの棧橋に立つて、滑かな川水の上に一と滴の思ひの血潮を落し/\した。
 それほどに慕ひ仰いだ師匠の心に背向いて了はねばならない時がみのるの上にも來たのであつた。其れはみのるが實際に生きなければならないと云ふほんとうの生活の上に、その眼が知らず/\開けて來た時であつた。毎日師匠の書齋にはいつて書物の古い樟腦の匂ひを嗅ぎながら、いゝ氣になつて遊んでばかりゐられない時が來たからであつた。そうして師匠の慈愛が、自分のほんとうに生きやうとする心の活《はた》らきを一時でも痲痺《しび》らしてゐた事にあさましい呪ひを持つやうな時さへ來た。この師匠の手をはなれなければ自分の前には新らしい途が開けないものゝ樣に思つて、みのるはこの慈愛の深い師匠の傍を長い間離れたけれども、その後のみのるの手に、目覺めたと云ふ證徴《しるし》を持つた樣な新らしい仕事は一とつとして出來上つてはゐなかつた。みのるはその頃の自分を圍《かこ》ふやうな師匠の慈愛を思ひ出して、いたづらな涙にその胸を潤ほす日が多かつた。そうして唯一人の人へ對する堅い信念に繋がれて傍目《わきめ》もふらなかつた幼ない昔を、世間といふものから常に打ち叩かれてゐる樣なこの頃のみのるの心に戀ひしく思ひ出さない日と云つてはないくらゐであつた。
 今夜は殊にその思ひが深かつた。みのるは今日の、夫人の棺前の讀經を聞きながら泣き崩れる樣にして右の手でその顏を掩ふてゐた師匠の姿を、いつまでも思つてゐた。義男はその晩通夜に行つて歸つてこなかつた。

「その紋付は何うしたの。」
 一と足先きに葬式から歸つてゐた義男は、みのるが歸つてくるのを待つて
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