懷ろ手をした儘で冷えてきた足の先きを着物の裾にくるみながら、いつまでも唐紙のところに寄つかゝつてゐた。そうして兎もすると、男が自分一人の力だけでは到底持ちきれない生活の苦しさから、女をその手から彈きだそう彈きだそうと考へてゐる中を、かうして縋り付いてゐなければならない自分と云ふものを考へた時、みのるの眼には又新らしい涙が浮んだ。
義男の力が、みのるの今まで考へてゐた男と云ふものゝ力の、層《そう》にしたならその一《ひ》と層《かい》にも足りない事をみのるは知つてゐた。その頼りない男の力にいつまでも取り縋つてはゐたくなかつた。自分も何かしなければならないと云ふ取りつめた考へによく迫られた。けれどもみのるは何も働く事が出來なかつた。義男が今みのるに云つた樣に、義男の前にみのるは何《なに》も爲《し》て見せるだけの力量を持つてゐなかつた。自分の内臟を噛み挫《ひし》いでもやり度いほどの口惜《くや》しさばかりはあつても、みのるは何も爲る事も出來なかつた。みのるは矢つ張りこの力のない男の手で養つてもらはなければならなかつた。
みのるは溜息をしながら立上ると義男の寢床の方へづか/″\と歩いて行つた。そうして其の夜着を右の手を出して刎《は》ね退《の》けた。
「私も寢るんですから。夜具を下さい。」
二人の仲には一と組の夜のものしきや無かつた。義男はその聲を聞くと直ぐに起きて枕許の眼鏡を探してゐたが、寢床を離れる時に、
「寢たまへ。」
と云つて又茶の間の方へ出て行つた。その男の後を少時《しばらく》見てゐたみのるは丸まつてゐる樣な蒲團を丁寧に引き直してから、自分の枕を持つて來てその中にはいつた。
みのるは床に入つてから、粘りのない生一本の男の心と、細工に富んだねつちりした女の心とがいつも食ひ違つて、さうして毎日お互を突つ突き合ふ樣な爭ひの絶へた事のない日を振返つて見た。そこには、自分の紅總《べにふさ》のやうに亂れる時々の感情を、その上にも綾《あや》してくれるなつかしい男の心と云ふものを見付け出す事が出來なかつた。
四
義男がやつとある職業に就いたのは櫻の咲く頃であつた。自分たちの生活の資料を得る爲に痩せた力のない身體を都會の眞中まで運んでゆく義男の姿を、みのるは小犬を連れて毎朝停車塲まで送つて行つた。時にはその電車の窓へ向けて、戀人のやうに女の唇からキスを送る白い手先きが、温い日光の影を遮る事もあつた。みのるは小犬に話をしかけながら墓地を拔けて歸つてくるのが常だつた。そうして二階の窓を開け放つて、小供の爪の先きが人の肉體をこそこそと掻きおろしてくる樣なきつい温さを含んだ日光に額をさらしながら、みのるは一日本を讀んで暮らした。讀書からみのるの思想の上に流れ込んでくる新らしい文字も、みのるは自分一人して味はふ時が多かつた。そうして頁から頁への藝術の匂ひの滴つた種々な塲景が、とりとめのない憧憬の爲に揉み絹のやうに萎えしぼんだみのるの心を靜に遠く幻影の世界に導いてゆく時、みのるは興奮して、その頬を一寸傷づけても血の流れさうな逆上した頬をして、さうして墓地の中を歩き廻つた。袖にさわつた茨《ばら》の小枝の先きにも心を惹かれるほど、みのるの心は何も彼《か》も懷しくなつて涙が溢れた。無暗《むやみ》と騷ぎ立つ感情の押へやうもなくなつて、誰とも知らない墓塲の石にその額を押し付けた事もあつた。ぬきんでた樣な青い松と、むらがつてる樣な咲き亂れた櫻と、夕暮れの空の濃い隈をいろどつてゐる天王寺のあたりを、みのるは涙を溜めながら行つたり來たりした。
ある晩二人は上野の山をぶら/\と歩いてゐた。櫻の白い夜の空は淺黄色に晴れてゐた。森の中の灯は醉ひにかすんだ美しい女の眼のやうに、おぼろな花の間に華やかな光りと光りを目交《めま》ぜしてゐた。
「いゝ晩だわね。」
みのるは然う云つて、思ふさま身振りをして見せると云ふ樣な身體付きをしてはしやいで歩いてゐた。この山の森の中にそつくり秘められてゐた幾千人の戀のさゝやきが春になつて櫻が咲くと、靜な山の彼方此方《あちこち》から櫻の花片《はなびら》の一とつ/\にその優しい餘韻を傳はらせ初めるのだと思つた時に、みのるの胸は微かに鳴つた。みのるは天蓋のやうに枝を低く差し延べた櫻の木の下に、わざわざ兩袖をひろげて立つて見たりした。そうして花の匂ひに交ぢつたコートの古るい香水の匂ひを、みのるはなつかしいものゝ息に觸れるやうに思ひながら、兎もすると捉みどころもなく消えそうになる香りを一と足一と足と追つてゐた。
義男は義男で、堅い腕組みをして素つ氣のない顏をしながらみのると離れてぽつ/\と歩《あ》るいてゐた。義男の頭について廻つてゐる貧乏と云ふ觀念が、夜の花の蔭を逍遙しても何の興味も起らせなかつた。長い間の窮迫に外に出る着物の融通
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