樣な昂奮を持つてゐた。
「今夜はどんなだつたかしら、少しはうまく行つて。」
「今夜は非常によかつた。」
二人はかう一と言づゝを言ひ合つたきりで歩いて行つた。毎夜舞臺の上で一滴の生命の血を絞り/\してる樣な技藝に對する執着の疲れが、かうして歩いて行くみのるを渦卷くやうに遠い悲しい境へ引き寄せていつた。その美しい憧憬《あこがれ》の惱みを通して、誹笑の聲が錐のやうにみのるの燃る感情を突き刺してゐた。池の端の灯を眺めながら行くみのるの眼はいつの間にか涙|含《ぐ》んでゐた。
「全く君は演劇の方では技量を持てゐるね。僕も今度はほんとうに感心した。けれども顏の惡るいと云ふのは何割もの損だね。君は容貌の爲めに大變な損をするよ。」
義男はしみ/″\と斯う云つた。義男は自分の女房を前において、その顏を批判するやうな機會に出逢つた事がいやであつた。同時に、みのるがそのすべてを公衆に曝すやうな機會を作り出した事に不滿があつた。
「よせばいゝのに。」
義男は斯う云ふ言葉を繰り返さずにはゐられなかつた。
十二
僅な日數で芝居は濟んでしまつた。みのるが鏡臺を車に乘せて家へ歸つた最後の晩は雨が降つてゐた。一座した俳優たちが又長く別れやうとする終りの夜には、誰も彼も淡い悲しみをその心の上に浮べてゐた。男の俳優は樂屋で使つたいろ/\の道具を風呂敷に包んだり、鞄に入れたりして、それを片手に下げながら帽の庇に片手をかけて挨拶し合つてゐた。この劇團が解散すれば、又何所へ稼ぎに行くか分らないと云ふ放浪の悲しみがそのてん/″\の蒼白い頬に漂つてゐた。しつかりした基礎《もとゐ》のないこの新しい劇團は、最《も》うこれで凡が滅びてしまふ運命を持つてゐた。何か機運に乘じるつもりで、斯うして集まつた俳優たちは、又この手から放れて然うして矢つ張り明日からの生活の糧をそれ/″\に考へなければならなかつた。みのるは車の上からかうして別れて行つてしまつた俳優たちの後を見送つた。
芝居の間みのるが一番親しんだ女優は早子であつた。新派の下つ端の女形をしてゐると云ふ可愛らしい早子の亭主が、みのると合部屋の早子のところへ能く來てゐた。早子には病氣があつた。昨晩血を吐いたと云ふ樣な翌《あく》る日は、傍から見てゐてもその身體がほそ/″\と消えていつて了うかと思ふ樣な、力のないぐつたりした樣子をしてゐた。毎日喧嘩ば
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