輕い雨の音はその紫陽花の葉に時々音を立てた。みのるはその音を聞き付けるとふと懷しくなつて其所に降る雨をいつまでも見詰めてゐた。
義男がいつもの時間に歸つて來た時はもうその雨は止んでゐた。みのるは義男の歸つてからの樣子を見て、その心の奧に何か底を持つてゐる事に氣が付いてゐた。
「おい、君は何《ど》うするんだ。」
みのるが夜るの膳を平氣で片付けやうとした時に義男は斯う聲をかけた。
「何故君は例の仕事をいつまでも初めないんだね。止すつもりなのか。」
其れを聞くとみのるは直ぐに思ひ當つた。
一週間ばかり前に義男は勤め先きから歸つてくると「君の働く事が出來た。」と云つて新聞の切り拔きをみのるに見せた事があつた。それは地方のある新聞でそれに懸賞の募集の廣告があつた。みのるがそれ迄に少しづゝ書き溜めておいた作《もの》のある事を知つてゐた義男は、それにこの規程《きてい》の分だけを書き足して送つた方が好いと云つてみのるに勸めたのであつた。
「もし當れば一と息《いき》つける。」
義男は斯う云つた。けれどもみのるは生返事をして今日まで手を付けなかつた。それに義男がその仕事を見出した時はもう締めきりの期日に迫つてしまつた時であつた。その僅の間にみのるには兎ても思ふ樣なものは書けないと思つたからであつた。
「何故書かないんだ。」
義男はその口を神經的に尖《とが》らかしてみのるに斯う云ひ詰めた。
「そんな賭け見たいな事を爲るのはいやだから、だから書かないんです。」
みのるの例の高慢な氣《け》振りがその頬に射したのを義男は見たのであつた。
みのるはその萬一の僥倖によつて、義男が自分の經濟の苦しみを免《のが》れ樣と考へてゐる事に不快を持つてゐた。この男は女を藝術に遊ばせる事は知らないけれども、女の藝術を賭博の樣な方へ導いて行つて働かせる事だけは知つてゐるのだと思ふと、みのるは腹が立つた。
「そんな事に使ふやうな荒れた筆は持つてゐませんから。」
みのるは又斯う云つた。
「生意氣云ふな。」
斯う義男は怒鳴りつけた。女の高慢に對する時の義男の侮蔑は、いつもこの「生意氣云ふな。」であつた。みのるはこの言葉が嫌ひであつた。義男を見詰めてゐたみのるの顏は眞つ蒼になつた。
「君は何と云つた。働くと云つたぢやないか。僕の爲に働くと云つたぢやないか。それは何うしたんだ。」
「働かないとは云ひませ
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