日本人ではないかといいたくなる。いわんや新聞に「ブック・レヴュー」とか「ホーム・セクション」とかいう欄が設けられているのは私には全く不可解である。
 如何《いか》に外来語が好んで用いられるかは、最近の新聞記事に「スラムのブルジョア、ルンペン群中のクイーン」と書いてあった一例によってだけでもわかる。また仮りに『文藝春秋』五月号を開いてみても大臣または大臣級の人たちが「労働者はない、しかるにメンタルの働き手というものは余っているという訳だな。それで高等教育と国の事情とがマッチしないですな」とか「高橋さんの性格の長所たりし恬淡《てんたん》がスプールロース・フェルローレン!〔あとかたもなく消えてしまった〕 実に意外の感があった」などといっている。これらは何の必要があって外国語を用いるのか私は了解に苦しむのである。
 欧米語に対する社会一般の軽薄な好奇心を統制して大和《やまと》言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎がひろく日本精神の鼓吹にあることはいうまでもない。基礎さえ出来れば外来語はおのずから影をうすくするであろう。基礎が出来なくては何もならない。基礎を前提すると共に基礎の建設に貢献すべき言語統制の方法としては、文筆に携わるものが必要のない外来語は断然用いない決意を強固にし、まず新しい外国語がはいってきかけた場合には自己の好奇心を抑圧して直ちに適当な訳語をつくること、またいったん通用してしまった場合にはなるべく早く訳語をつくって原語を社会の識閾《しきいき》から駆逐する事を計らなければならない。
 いったん、外来語が社会的識閾へ上って常識化されてしまうと便利であるから誰しも使うようになる。それ故に常識化されるまでに一般的通用を阻止することに全力をそそがなくてはならない。そして不幸にも既に言語の通貨となりすましてしまったならば贋金《にせがね》を根絶することに必死の努力を払うべきである。失望するには当らない。「オールドゥーヴル」は「前菜」に殆ど駆逐されたかたちである。「ベースボール」は「野球」に完全に駆逐されてしまった。これらの事実は我々に勇気と希望とを与える。新しい言語内容に関して外国語をそのまま用いればなるほど一番世話はない。好奇心を満足させることも事実である。しかしそれではあまりにも自国語に対する愛と民族的義務とに欠けている。
 西洋哲学の術語などは明治以来諸先輩の努力によって殆どすべて翻訳され尽している。範疇《はんちゅう》、当為、止揚、妥当などというむつかしい言葉も今日ではもう日用語になりきってしまった。哲学上の言葉は概念的抽象的であるからある意味ではかえって翻訳とその通用とが容易であるとも考えられる。すべて言語の内容が客観的知的である場合には翻訳が成立しやすく、主観的情的である場合には翻訳がうまくいかないことは事実である。
 生活と密接な具体的関係にある言葉は雰囲気の情調を満喫していて他国語への翻訳が困難であるには相違ないが、それも程度の問題であって、外来語の国訳へ向って出来得る限りの努力が払われなくてはならない。知識階級が全面的に誠意ある努力をこの点に払うならば必ず社会民衆が納得して使用するような新鮮味ある訳語が出来てくると信ずる。
 日本人は一日も早く西洋崇拝を根柢から断絶すべきである。殊《こと》に文筆の上で国民指導の位置にある学者と文士と新聞雑誌記者とが民族意識に深く目覚めて、国語の純化に努力し、外来語の排撃に奮闘し、社会の趣味を高きへ導くことを心掛けなければならない。



底本:「九鬼周造随筆集」菅野昭正編、岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年9月17日第1刷発行
   1992(平成4)年9月20日第3刷発行
底本の親本:「九鬼周造全集 第五巻」岩波書店
   1991(平成3)年2月第2刷
入力:鈴木厚司
校正:松永正敏
2003年8月22日作成
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