れほど簡単なことはない。そうだ。こうも考えられる。
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x=b
b=a
[#ここから3字下げ]
∴ x=a
[#ここで字下げ終わり]
してみると、形式論理学で媒概念曖昧の虚偽という奴だな。bが癖ものなのだ。
[#ここから2字下げ]
敏子に送られた鰈は村上の鰈である。
村上の鰈は山崎の送った鰈である。
それ故に、敏子に送られた鰈は山崎の送った鰈である。
[#ここで字下げ終わり]
山崎はこんな推論をしたのだ。だが「村上の鰈」といっても「村上の送った鰈」と「村上に送られた鰈」とがある。「村上の送った鰈」は松葉がれいで「村上に送られた鰈」は笹がれいなのだが、事態の偶然性が魔法の輪を描いて松葉がれいと笹がれいとを一つにしてしまったのだ。「村上の鰈」という概念はローマの神様のように首が両面になっている。二つが一つになったのか、一つが二つになったのか。つまり突然に煙が吹き出て「村上の送った鰈」と「村上に送られた鰈」との区別がつかなくなったのだ。「誰かあはれといふ[#「いふ」に白丸傍点]暮の」といった掛詞風の曖昧性が醸《かも》し出されたのだ。そこで媒概念という役目がつとまったのだ。そこから虚偽が起ったのだ。それが誤解の正体だ。偶然という魔法の戯れが手品師のようにいきなり怪しい煙を起こしたのだから山崎が誤解したのは全く無理もないことだ。
翌朝、起きて村上は手帳にこんなことを書きつけた。「どうも実社会のことは x=b, b=a, ∴ x=a というようなパスカルのいわゆる「幾何学《ジェオメトリー》の精神《エスプリ》」だけではわからないことが多い。bとb′[#「b′」は縦中横] との相違を見わける「尖鋭《フィネス》の精神《エスプリ》」がどうしても必要だ。偶然などという奴は「尖鋭の精神」の権化みたようなもので、よっぽど精神をほそくとんがらかさないでは捉えにくい代物だ。人間と人間との間の誤解というようなこともほんのちょっとしたことから起るものだ。
山崎にも感想を書いて送ろうかとしたが、それほどのことでもないと考えてやめてしまった。そしてその日から村上は毎朝、毎朝、朝食には山崎より貰った若狭の笹がれいを欠かさずに食べた。主人がよくも飽きないものだと台所で女中たちがささやき合った。
底本:「九鬼周造随筆集」菅野昭正編、岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年
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