ト実に無数の名で呼ばれている。江戸時代に用いられた名称を挙げても、まず色そのものの抽象的性質によって名附けたものには、白茶《しらちゃ》、御納戸茶《おなんどちゃ》、黄柄茶《きがらちゃ》、燻茶《ふすべちゃ》、焦茶《こげちゃ》、媚茶《こびちゃ》、千歳茶《ちとせちゃ》などがあり、色をもつ対象の側《がわ》から名附けたものには、鶯茶《うぐいすちゃ》、鶸茶《ひわちゃ》、鳶色《とびいろ》、煤竹色《すすだけいろ》、銀煤色、栗色、栗梅、栗皮茶、丁子茶《ちょうじちゃ》、素海松茶《すみるちゃ》、藍《あい》海松茶、かわらけ茶などがあり、また一定の色合を嗜好《しこう》する俳優の名から来たものには、芝翫茶《しかんちゃ》、璃寛茶《りかんちゃ》、市紅茶《しこうちゃ》、路考茶《ろこうちゃ》、梅幸茶《ばいこうちゃ》などがあった。しからば茶色とはいかなる色であるかというに、赤から橙《だいだい》を経て黄に至る派手《はで》やかな色調が、黒味を帯びて飽和の度の減じたものである。すなわち光度の減少の結果生じた色である。茶色が「いき」であるのは、一方に色調の華《はな》やかな性質と、他方に飽和度の減少とが、諦《あきら》めを知る媚態、垢抜《あかぬけ》した色気を表現しているからである。
 第三に、青系統の色は何故《なにゆえ》「いき」であるか。まず一般に飽和の減少していない鮮やかな色調としていかなる色が「いき」であるかということを考えてみるに、何らかの意味で黒味に適するような色調でなければならぬ。黒味に適する色とはいかなる色かというに、プールキンエの現象によって夕暮に適合する色よりほかには考えられない。赤、橙、黄は網膜《もうまく》の暗順応《あんじゅんのう》に添おうとしない色である。黒味を帯びてゆく[#底本の親本では「黒味を帯びゆく」とある]心には失われ行く色である。それに反して、緑、青、菫《すみれ》は魂の薄明視《はくめいし》に未だ残っている色である。それ故に、色調のみについていえば、赤、黄などいわゆる異化作用の色よりも、緑、青など同化作用の色の方が「いき」であるといい得る。また、赤系統の温色よりも、青中心の冷色の方が「いき」であるといっても差支ない。したがって紺や藍は「いき」であることができる。紫のうちでは赤|勝《がち》の京紫よりも、青勝の江戸紫の方が「いき」と看做《みな》される。青より緑の方へ接近した色は「いき」であるためには普通は飽和の度と関係してくる。「松葉色の様なる御納戸」とか、木賊《とくさ》色とか、鶯色とかは、みな飽和度の減少によって特に「いき」の性質を備えているのである。
 要するに、「いき」な色とはいわば華《はな》やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生き[#「生き」に傍点]ている。個人的または社会的体験に基づいた冷《ひや》やかな知見が可能性としての「いき」を支配している。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。また、「いき」は色気のうちに色盲《しきもう》の灰色を蔵している。色に染《そ》みつつ色に泥《なず》まないのが「いき」である。「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿《かく》している。
 以上を概括すれば、「いき」が模様に客観化されるに当って形状と色彩との二契機を具備する場合には、形状としては、「いき」の質料因たる二元性を表現するために平行線が使用され、色彩としては、「いき」の形相因たる非現実的理想性を表現するために一般に黒味を帯びて飽和弱いものまたは冷たい色調が択《えら》ばれる。
 次に、模様と同じく自由芸術たる建築[#「建築」に傍点]において、「いき」はいかなる芸術形式を取っているか。建築上の「いき」は茶屋建築に求めてゆかなければならぬが、まず茶屋建築の内部空間および外形の合目的的形成について考えてみる。およそ異性的特殊性の基礎は原本的意味においては多元を排除する二元である。そうして、二元のために、特に二元の隔在的《かくざいてき》沈潜のために形成さるる内部空間は、排他的完結性と求心的緊密性とを具現していなければならぬ。「四畳半《よじょうはん》の小座しきの、縁《えん》の障子《しょうじ》」は他の一切との縁を断って二元の超越的存在に「意気なしんねこ四畳半」を場所として提供する。すなわち茶屋の座敷としては「四畳半」が典型的と考えられ、この典型からあまり遠ざからないことが要求される。また、外形が内部空間の形成原理に間接に規定さるる限り、茶屋の外形全体は一定度の大きさを越えてはならない。このことを基礎的予件として、茶屋建築は「いき」の客観化をいかなる形式において示しているであろうか。
 「いき」な建築にあっては、内部外部の別なく、材料の選択と区劃の仕方によって、媚態の二元性が表現されている。材料上の二元性は木材と竹材との対照によって表わされる場合が最も多い。永井荷風は『江戸芸術論』のうちで次のような観察をしている。「家は腰高《こしだか》の塗骨障子《ぬりぼねしょうじ》を境にして居間と台所との二間のみなれど竹[#「竹」に傍点]の濡縁《ぬれえん》の外《そと》には聊《ささや》かなる小庭ありと覚《おぼ》しく、手水鉢《ちょうずばち》のほとりより竹[#「竹」に傍点]の板目《はめ》には蔦《つた》をからませ、高く釣りたる棚の上には植木鉢を置きたるに、猶《なお》表側の見付《みつき》を見れば入口の庇《ひさし》、戸袋、板目なぞも狭き処《ところ》を皆それぞれに意匠《いしょう》して網代《あじろ》、船板、洒竹[#「洒竹」に傍点]などを用ゐ云々」。かつまた、「竹材を用ゆる事の範囲|並《ならび》に其《そ》の美術的価値を論ずるは最も興味ある事」であると注意している。およそ竹材には「竹の色|許由《きょゆう》がひさごまだ青し」とか「埋《うめ》られたおのが涙やまだら竹」というように、それ自身に情趣の深い色っぽさがある。しかし「いき」の表現としての竹材の使用は、主として木材との二元的対立に意味をもっている。なお竹のほかには杉皮も二元的対立の一方の項《こう》を成すものとして「いき」な建築が好んで用いる。「直《すぐ》な柱も杉皮附《すぎかわつき》、つくろはねどもおのづから、土地に合ひたる洒落造《しゃれづく》り」とは『春色辰巳園』巻頭の叙述である。
 室内の区劃の上に現わるる二元性としては、まず天井《てんじょう》と牀《ゆか》との対立が両者の材料上の相違によって強調される。天井に丸竹を並べたり、ひしぎ竹を列《つら》ねたりするいわゆる竹天井の主要なる任務は、この種の材料によって天井と牀との二元性を判明させることにある。天井を黒褐色の杉皮で張るのも、青畳との対比関係に関心を置いている。また、天井そのものも二元性を表わそうとすることが多い。例えば不均等に二分して、大なる部分を棹縁《さおぶち》天井となし、小なる部分を網代《あじろ》天井とする。或いは更に二元性を強調して、一部分には平《ひら》天井を用い、他の部分には懸込《かけこみ》天井を用いる。次に牀自身も二元性を表わそうとする。床《とこ》の間《ま》と畳とは二元的対立を明示していなければならない。それ故に、床框《とこがまち》の内部に畳または薄縁《うすべり》を敷くことは「いき」ではない。室全体の畳敷に対して床の間の二元性が対立の力を減ずるからである。床の間は床板を張って室内の他部と判明に対立することを要する、すなわち床の間が「いき」の条件を充《みた》すためには本床であってはならない。蹴込床《けこみどこ》または敷込床を択ぶべきである。また、「いき」な部屋では、床の間と床脇の違棚《ちがいだな》とにも二元的対立を見せる必要がある。例えば床板には黒褐色のものを用い、違棚の下前《したまえ》にはひしぎ竹の白黄色のものを敷く。それと同時に、床天井と棚天井とに竹籠編《たけかごあみ》と鏡天井とのごとき対立を見せる。そうして、この床脇の有無がしばしば、茶屋建築の「いき」と茶室建築の「渋味」との相違を表わしている。また床柱《とこばしら》と落掛《おとしがけ》との二元的対立の程度の相違にも、茶屋と茶室の構造上の差別が表われているのが普通である。
 しかしながら、「いき」な建築にあってはこれら二元性の主張はもとより煩雑《はんざつ》に陥ってはならない。なお一般に瀟洒《しょうしゃ》を要求する点において、しばしば「いき」な模様と同様の性質を示している。例えばなるべく曲線を避けようとする傾向がある。「いき」な建築として円形の室または円天井《まるてんじょう》を想像することはできない。「いき」な建築は火灯窓《かとうまど》や木瓜窓《もっこうまど》の曲線を好まない。欄間《らんま》としても櫛形《くしがた》よりも角切《かくぎり》を択ぶ。しかしこの点において建築は独立な抽象的な模様よりはやや寛大である。「いき」な建築は円窓《まるまど》と半月窓《はんげつまど》とを許し、また床柱の曲線と下地窓《したじまど》の竹に纏《まと》う藤蔓《ふじづる》の彎曲《わんきょく》とを咎《とが》めない。これはいずれの建築にも自然に伴う直線の強度の剛直に対して緩和を示そうとする理由からであろう。すなわち、抽象的な模様と違って全体のうちに具体的意味をもつからである。
 なお、建築の様式上に表わるる媚態の二元性を理想主義的非現実性の意味に様態化するものには、材料の色彩と採光照明の方法とがある。建築材料の色彩の「いき」は畢竟《ひっきょう》、模様における色彩の「いき」と同じである。すなわち、灰色と茶色と青色の一切のニュアンスが「いき」な建築を支配している。そうして、一方に色彩の上のこの「さび」が存すればこそ、他方に形状として建築が二元性を強く主張することができたのである。もし建築が形状上に二元的対立を強烈に主張し、しかも派手な色彩を愛用するならば、ロシアの室内装飾に見るごとき一種の野暮に陥ってしまうほかはない。採光法、照明法も材料の色彩と同じ精神で働かなければならぬ。四畳半の採光は光線の強烈を求むべきではない。外界よりの光を庇《ひさし》、袖垣《そでがき》、または庭の木立《こだち》で適宜に遮断《しゃだん》することを要する。夜間の照明も強い灯光を用いてはならぬ。この条件に最も適合したものは行灯《あんどん》であった。機械文明は電灯に半透明の硝子《ガラス》を用いるか、或いは間接照明法として反射光線を利用するかによってこの目的を達しようとする。いわゆる「青い灯《ひ》、赤い灯」は必ずしも「いき」の条件には適しない。「いき」な空間に漂う光は「たそや行灯」の淡い色たるを要する。そうして魂の底に沈んで、ほのかに「たが袖」の薫《かおり》を嗅《か》がせなければならぬ。
 要するに、建築上の「いき」は、一方に「いき」の質料因たる二元性を材料の相違と区劃の仕方に示し、他方にその形相因たる非現実的理想性を主として材料の色彩と採光照明の方法とに表わしている。
 建築は凝結した音楽といわれているが、音楽を流動する建築と呼ぶこともできる。しからば自由芸術たる音楽[#「音楽」に傍点]の「いき」はいかなる形において表われているか。まず田辺尚雄《たなべひさお》氏の論文「日本音楽の理論附粋の研究{4}」によれば、音楽上の「いき」は旋律《せんりつ》とリズムの二方面に表われている。旋律の規範としての音階は、わが国には都節《みやこぶし》音階と田舎節《いなかぶし》音階との二種あるが、前者は技巧的音楽のほとんど全部を支配する律旋法として主要のものである。そうして、仮りに平調《ひょうじょう》を以て宮音《きゅうおん》とすれば、都節音階は次のような構造をもっている。
  平調―壱越《いちこつ》(または神仙)―盤渉《ばんしき》―黄鐘《おうしき》―双調《そうじょう》(または勝絶《しょうせつ》)―平調
この音階にあって宮音たる平調と、徴音《ちおん》たる盤渉とは、主要なる契機として常に整然たる関係を保持している。それに反して、他の各音は実際にあっては理論と必ずしも一致しない。理論的関係に対して多少の差異を示している。すなわち理想体に対して一定の変位を来たして
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