ひ衣服《きもの》きて手車に乘りあるく時は立派らしくも見えませうけれど、父さんや母さんに斯うして上やうと思ふ事も出來ず、いはゞ自分の皮一重、寧そ賃仕事してもお傍で暮した方が餘つぽど快よう御座いますと言ひ出すに、馬鹿、馬鹿、其樣な事を假にも言ふてはならぬ、嫁に行つた身が實家《さと》の親の貢をするなどゝ思ひも寄らぬこと、家に居る時は齋藤の娘、嫁入つては原田の奧方ではないか、勇さんの氣に入る樣にして家の内を納めてさへ行けば何の子細ヘ無い、骨が折れるからとて夫れ丈の運のある身ならば堪へられぬ事は無い筈、女などゝ言ふ者は何うも愚痴で、お袋などが詰らぬ事を言ひ出すから困り切る、いや何うも團子を喰べさせる事が出來ぬとて一日大立腹であつた、大分熱心で調製《こしらへ》たものと見えるから十分に喰べて安心させて遣つて呉れ、餘程|甘《うま》からうぞと父親の滑稽《おどけ》を入れるに、再び言ひそびれて御馳走の栗枝豆ありがたく頂戴をなしぬ。
嫁入りてより七年の間、いまだに夜に入りて客に來しこともなく、土産もなしに一人|歩行《あるき》して來るなど悉皆《しつかい》ためしのなき事なるに、思ひなしか衣類も例《いつも》ほど燦《きらびや》かならず、稀に逢ひたる嬉しさに左のみは心も付かざりしが、聟よりの言傳とて何一言の口上もなく、無理に笑顏は作りながら底に萎れし處のあるは何か子細のなくては叶はず、父親は机の上の置時計を眺めて、こりやモウ程なく十時になるが關は泊つて行つて宜いのかの、歸るならば最う歸らねば成るまいぞと氣を引いて見る親の顏、娘は今更のやうに見上げて御父樣私は御願ひがあつて出たので御座ります、何うぞ御聞遊ばしてと屹となつて疊に手を突く時、はじめて一トしづく幾層《いくそ》の憂きを洩らしそめぬ。
父は穩かならぬ色を動かして、改まつて何かのと膝を進めれば、私は今宵限り原田へ歸らぬ決心で出て參つたので御座ります、勇が許しで參つたのではなく、彼の子を寐かして、太郎を寐かしつけて、最早あの顏を見ぬ決心で出て參りました、まだ私の手より外誰れの守りでも承諾《しようち》せぬほどの彼の子を、欺して寐かして夢の中に、私は鬼に成つて出て參りました、御父樣、御母樣、察して下さりませ私は今日まで遂ひに原田の身に就いて御耳に入れました事もなく、勇と私との中を人に言ふた事は御座りませぬけれど、千度《ちたび》も百度《もゝたび》も考
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