曲《ま》ぐる口元の愛らしさ、肥えたる腮《あご》の二重《ふたへ》なるなど、かかる人さへある身にて、我れは二《ふ》タ心《ごゝろ》を持ちて済むべきや。夢さら二タ心は持たぬまでも、我が良人《おつと》を不足に思ひて済むべきや。はかなし、はかなし、桜町の名を忘れぬ限り、我れは二タ心の不貞の女子《おなご》なり」
児《ちご》を静かに寝床にうつして、女子《をなご》はやをら立《たち》あがりぬ。眼《め》ざし定《さだ》まりて口元かたく結びたるまゝ、畳の破れに足も取られず、心ざすは何物ぞ。葛籠《つゞら》の底に納めたりける一二枚《いちにまい》の衣《きぬ》を打《うち》かへして、浅黄《あさぎ》ちりめんの帯揚《おびあげ》のうちより、五|通《つう》六通、数ふれば十二|通《つう》の文《ふみ》を出《いだ》して旧《もと》の座へ戻《もど》れば、蘭燈《らんとう》のかげ少し暗きを、捻《ね》ぢ出《いだ》す手もとに見ゆるは殿の名。「よし匿名《かくしな》なりとも、この眼《め》に感じは変るまじ。今日まで封じを解かざりしは、我れながら心強しと誇りたる浅《あさ》はかさよ。胸のなやみに射る矢のおそろしく、思へば卑怯《ひきよう》の振舞《ふるまひ》なりし。身の行ひは清くもあれ、心の腐りのすてがたくば、同じ不貞の身なりけるを、いざさらば心試《こゝろだめ》しに拝し参らせん。殿も我が心を見給へ、我が良人《をつと》も御覧ぜよ。
神もおはしまさば我《わ》が家《や》の軒に止《とゞ》まりて御覧ぜよ、仏もあらば我がこの手元に近よりても御覧ぜよ。我が心は清めるか濁れるか」
封じ目ときて取出《とりいだ》せば一尋《ひとひろ》あまりに筆のあやもなく、有難き事の数々、辱《かた》じけなき事の山々、思ふ、恋《した》ふ、忘れがたし、血の涙、胸の炎、これ等の文字《もんじ》を縦横《じうわう》に散らして、文字《もんじ》はやがて耳の脇《わき》に恐《おそろ》しき声もて※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《さゝや》くぞかし。一通は手もとふるへて巻納《まきおさ》めぬ、二通も同じく、三通《さんつう》四通《しつう》五六通《ごろくつう》より少し顔の色かはりて見えしが、八九十通《はちくじつゝう》十二通《じうにつう》、開らきては読み、よみては開《ひ》らく、文字《もんじ》は目に入《い》らぬか、入りても得《え》よまぬか。
長《たけ》なる髪をうしろに結びて、旧《ふ》りたる衣《き
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