《なにがし》かをぢやらつかせ、弟妹引つれつゝ好きな物をば何でも買への大兄樣、大愉快の最中《もなか》へ正太の飛込み來しなるに、やあ正さん今お前をば探して居たのだ、己れは今日は大分の儲けがある、何か奢つて上やうかと言へば、馬鹿をいへ手前に奢つて貰ふ己れでは無いわ、默つて居ろ生意氣は吐《つ》くなと何時になく荒らい事を言つて、夫れどころでは無いとて鬱《ふさ》ぐに、何だ何だ喧嘩かと喰べかけの※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]ぱんを懷中《ふところ》に捻ぢ込んで、相手は誰れだ、龍華寺か長吉か、何處で始まつた廓内《なか》か鳥居前か、お祭りの時とは違ふぜ、不意でさへ無くば負けはしない、己れが承知だ先棒は振らあ、正さん膽ッ玉をしつかりして懸りねへ、と競ひかゝるに、ゑゝ氣の早い奴め、喧嘩では無い、とて流石に言ひかねて口を噤《つぐ》めば、でもお前が大層らしく飛込んだから己れは一途に喧嘩かと思つた、だけれど正さんは今夜はじまらなければ最う是れから喧嘩の起りッこは無いね、長吉の野郎片腕がなくなる物と言ふに、何故どうして片腕がなくなるのだ。お前知らずか己れも唯《たつた》今うちの父さんが龍華寺の御新造と話して居たを聞いたのだが、信さんは最う近々何處かの坊さん學校へ這入るのだとさ、衣を着て仕舞へば手が出ねへや、空つきり彼《あ》んな袖のぺら/\した、恐ろしい長い物を捲り上げるのだからね、左うなれば來年から横町も表も殘らずお前の手下だよと煽《そや》すに、廢して呉れ二錢貰ふと長吉の組に成るだらう、お前みたやうのが百人中間に有たとて少とも嬉しい事は無い、着きたい方へ何方へでも着きねへ、己れは人は頼まない眞《ほん》の腕ッこで一度龍華寺とやりたかつたに、他處へ行かれては仕方が無い、藤本は來年學校を卒業してから行くのだと聞いたが、何うして其樣に早く成つたらう、爲樣のない野郎だと舌打しながら、夫れは少しも心に止まらねども美登利が素振のくり返されて正太は例の歌も出ず、大路の往來の夥たゞしきさへ心淋しければ賑やかなりとも思はれず、火ともし頃より筆やが店に轉がりて、今日の酉の市目茶/\に此處も彼處も怪しき事成りき。

 美登利はかの日を始めにして生れかはりし樣の身の振舞、用ある折は廓の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、友達さびしがりて誘ひにと行けば今に今にと空約束はてし無く、さしもに中よし成けれど正太とさへに親しまず、いつも恥かし氣に顏のみ赤めて筆やの店に手踊の活溌さは再び見るに難く成ける、人は怪しがりて病ひの故かと危ぶむも有れども母親一人ほゝ笑みては、今にお侠《きやん》の本性は現れまする、これは中休みと子細《わけ》ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず、女らしう温順しう成つたと褒めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたと誹るもあり、表町は俄に火の消えしやう淋しく成りて正太が美音も聞く事まれに、唯夜な/\の弓張提燈、あれは日がけの集めとしるく土手を行く影そゞろ寒げに、折ふし供する三五郎の聲のみ何時に變らず滑稽《おどけ》ては聞えぬ。
 龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説《うはさ》をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象《さま》に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの學林《がくりん》に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。
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(明治二十八年一、二、三、八、十一、十二月、二十九年一月
「文學界」 明治二十九年四月「文藝倶樂部」一括掲載)
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底本:「日本現代文學全集 10 樋口一葉集」講談社
   1962(昭和37)年11月19日第1刷発行
   1969(昭和44)年10月1日第5刷発行
※底本では「乱」と「亂」、「烟」と「煙」、「贔屓」と「贔負」などの混在が見られますが、底本通りとしました。
入力:青空文庫
校正:米田進、小林繁雄
1997年10月15日公開
2004年3月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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