運ぶにさへ、三公は何うかしたか、ひどく弱つて居るやうだなと見知りの臺屋に咎められしほど成しが、父親はお辭義の鐵とて目上の人に頭をあげた事なく廓内《なか》の旦那は言はずともの事、大屋樣地主樣いづれの御無理も御尤と受ける質なれば、長吉と喧嘩してこれこれの亂暴に逢ひましたと訴へればとて、それは何うも仕方が無い大屋さんの息子さんでは無いか、此方に理が有らうが先方《さき》が惡るからうが喧嘩の相手に成るといふ事は無い、謝罪《わび》て來い謝罪て來い途方も無い奴だと我子を叱りつけて、長吉がもとへあやまりに遣られる事必定なれば、三五郎は口惜しさを噛みつぶして七日十日と程をふれば、痛みの場處の愈《なほ》ると共に其うらめしさも何時しか忘れて、頭《かしら》の家の赤ん坊が守りをして二錢が駄賃をうれしがり、ねん/\よ、おころりよ、と背負ひあるくさま、年はと問へば生意氣ざかりの十六にも成りながら其|大躰《づうたい》を恥かしげにもなく、表町へものこ/\と出かけるに、何時も美登利と正太が嬲《なぶ》りものに成つて、お前は性根を何處へ置いて來たとからかはれながらも遊びの中間は外れざりき。
春は櫻の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ事此通りのみにて七十五輛と數へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉《うづら》なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清《じやうせい》が店の蚊遣香懷爐灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老《かどえび》が時計の響きもそゞろ哀れの音を傳へるやうに成れば、四季絶間なき日暮里《につぽり》の火の光りも彼れが人を燒く烟りかとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落かゝるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町藝者が冴えたる腕に、君が情の假寐《かりね》の床にと何ならぬ一ふし哀れも深く、此時節より通ひ初《そむ》るは浮かれ浮かるゝ遊客ならで、身にしみ/″\と實のあるお方のよし、遊女《つとめ》あがりの去る女《ひと》が申き、此ほどの事かゝんもくだ/\しや大音寺前にて珍らしき事は盲目按摩の二十ばかりなる娘、かなはぬ戀に不自由なる身を恨みて水の谷の池に入水《じゆすゐ》したるを新らしい事とて傳へる位なもの、八百屋の吉五郎に大工の太吉がさつぱりと影を見せぬが何とかせしと問ふに此一件であげられましたと、顏の眞中へ指をさして、何の子細なく取立てゝ噂をする者もなし、大路を見渡せば罪なき子供の三五人手を引つれて開いらいた開らいた何の花ひらいたと、無心の遊びも自然と靜かにて、廓に通ふ車の音のみ何時に變らず勇ましく聞えぬ。
秋雨しと/\と降るかと思へばさつと音して運びくる樣なる淋しき夜、通りすがりの客をば待たぬ店なれば、筆やの妻は宵のほどより表の戸をたてゝ、中に集まりしは例の美登利に正太郎、その外には小さき子供の二三人寄りて細螺《きしやご》はじきの幼なげな事して遊ぶほどに、美登利ふと耳を立てゝ、あれ誰れか買物に來たのでは無いか溝板を踏む足音がするといへば、おや左樣か、己いらは少つとも聞なかつたと正太もちう/\たこかいの手を止めて、誰れか中間が來たのでは無いかと嬉しがるに、門なる人は此店の前まで來たりける足音の聞えしばかり夫れよりはふつと絶えて、音も沙汰もなし。
十一
正太は潜りを明けて、ばあ[#「ばあ」に傍点]と言ひながら顏を出すに、人は二三軒先の軒下をたどりて、ぽつ/\と行く後影、誰れ誰れだ、おいお這入よと聲をかけて、美登利が足駄を突かけばきに、降る雨を厭はず驅け出さんとせしが、あゝ彼奴だと一ト言、振かへつて、美登利さん呼んだつても來はしないよ、一件だもの、と自分の頭《つむり》を丸めて見せぬ。
信さんかへ、と受けて、嫌やな坊主つたら無い、屹度筆か何か買ひに來たのだけれど、私たちが居るものだから立聞きをして歸つたのであらう、意地惡るの、根生《こんじやう》まがりの、ひねつこびれの、吃《どんも》りの、齒《はッ》かけの、嫌やな奴め、這入つて來たら散々と窘《いぢ》めてやる物を、歸つたは惜しい事をした、どれ下駄をお貸し、一寸見てやる、とて正太に代つて顏を出せば軒の雨だれ前髮に落ちて、おゝ氣味が惡るいと首を縮めながら、四五軒先の瓦斯燈の下を大黒傘肩にして少しうつむいて居るらしくとぼ/\と歩む信如の後かげ、何時までも、何時までも、何時までも見送るに、美登利さん何うしたの、と正太は怪しがりて背中をつゝきぬ。
何うもしない、と氣の無い返事をして、上へあがつて細螺を數へながら、本當に嫌やな小僧とつては無い、表向きに威張つた喧嘩は出來もしないで、温順しさうな顏ばかりして、根生がくす/\して居るのだもの憎くらしからうでは無いか、家の母さんが言ふて居たつけ、瓦落《がら》/\して居る者は心が好いのだと、夫れだからくす/\して居る信さん何かは心が惡るいに相違ない、ねへ正太さん左樣であらう、と口を極めて信如の事を惡く言へば、夫れでも龍華寺はまだ物が解つて居るよ、長吉と來たら彼れははやと、生意氣に大人の口を眞似れば、お廢しよ正太さん、子供の癖にませた[#「ませた」に傍点]樣でをかしい、お前は餘つぽど剽輕《へうきん》ものだね、とて美登利は正太の頬をつゝいて、其眞面目がほはと笑ひこけるに、己らだつても最少し經てば大人になるのだ、蒲田屋の旦那のやうに角袖外套か何か着てね、祖母さんが仕舞つて置く金時計を貰つて、そして指輪もこしらへて、卷煙草を吸つて、履く物は何が宜からうな、己らは下駄より雪駄が好きだから、三枚裏にして繻珍の鼻緒といふのを履くよ、似合ふだらうかと言へば、美登利はくす/\笑ひながら、背の低い人が角袖外套に雪駄ばき、まあ何んなにか可笑しからう、目藥の瓶が歩くやうであらうと誹《おと》すに、馬鹿を言つて居らあ、それまでには己らだつて大きく成るさ、此樣な小つぽけでは居ないと威張るに、夫れではまだ何時の事だか知れはしない、天井の鼠があれ御覽、と指をさすに、筆やの女房《つま》を始めとして座にある者みな笑ひころげぬ。
正太は一人眞面目に成りて例の目の玉ぐる/\とさせながら、美登利さんは冗談にして居るのだね、誰れだつて大人に成らぬ者は無いに、己らの言ふが何故をかしからう、奇麗な嫁さんを貰つて連れて歩くやうに成るのだがなあ、己らは何でも奇麗のが好きだから、煎餅やのお福のやうな痘痕《みつちや》づらや、薪やのお出額《でこ》のやうなが萬一《もし》來ようなら、直さま追出して家へは入れて遣らないや、己らは痘痕《あばた》と濕《しつ》つかきは大嫌ひと力を入れるに、主人《あるじ》の女は吹出して、それでも正さん宜く私が店へ來て下さるの、伯母さんの痘痕は見えぬかえと笑ふに、夫れでもお前は年寄りだもの、己らの言ふのは嫁さんの事さ、年寄りは何《どう》でも宜いとあるに、夫れは大失敗《おほしくじり》だねと筆やの女房おもしろづくに御機嫌を取りぬ。
町内で顏の好いのは花屋のお六さんに、水菓子やの喜いさん、夫れよりも、夫れよりもずんと好いはお前の隣に据つてお出なさるのなれど、正太さんはまあ誰れにしようと極めてあるえ、お六さんの眼つきか、喜いさんの清元か、まあ何れをえ、と問はれて、正太顏を赤くして、何だお六づらや、喜い公、何處が好い者かと釣りらんぷの下を少し居退きて、壁際の方へと尻込みをすれば、それでは美登利さんが好いのであらう、さう極めて御座んすの、と圖星をさゝれて、そんな事を知る物か、何だ其樣な事、とくるり後を向いて壁の腰ばりを指でたゝきながら、廻れ/\水車を小音に唱ひ出す、美登利は衆人《おほく》の細螺《きしやご》を集めて、さあ最う一度はじめからと、これは顏をも赤らめざりき。
十二
信如が何時も田町へ通ふ時、通らでも事は濟めども言はゞ近道の土手々前に、假初の格子門、のぞけば鞍馬の石燈籠に萩の袖垣しをらしう見えて、椽先に卷きたる簾のさまもなつかしう、中がらすの障子のうちには今樣の按察《あぜち》の後室が珠數をつまぐつて、冠《かぶ》つ切りの若紫も立出るやと思はるゝ、その一ツ構へが大黒屋の寮なり。
昨日も今日も時雨の空に、田町の姉より頼みの長胴着が出來たれば、暫時《すこし》も早う重ねさせたき親心、御苦勞でも學校まへの一寸の間に持つて行つて呉れまいか、定めて花も待つて居ようほどに、と母親よりの言ひつけを、何も嫌やとは言ひ切られぬ温順しさに、唯はい/\と小包みを抱へて、鼠小倉の緒のすがりし朴木齒《ほゝのきば》の下駄ひたひたと、信如は雨傘さしかざして出ぬ。
お齒ぐろ溝の角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒やの前まで來し時、さつと吹く風大黒傘の上を抓《つか》みて、宙へ引あげるかと疑ふばかり烈しく吹けば、これは成らぬと力足を踏こたゆる途端、さのみに思はざりし前鼻緒のずる/\と拔けて、傘よりもこれこそ一の大事に成りぬ。
信如こまりて舌打はすれども、今更何と法のなければ、大黒屋の門に傘を寄せかけ、降る雨を庇に厭ふて鼻緒をつくろふに、常々仕馴れぬお坊さまの、これは如何な事、心ばかりは急《あせ》れども、何としても甘《うま》くはすげる事の成らぬ口惜しさ、ぢれて、ぢれて、袂の中から記事文の下書きして置いた大半紙を抓《つか》み出し、ずん/\と裂きて紙縷《こより》をよるに、意地わるの嵐またもや落し來て、立かけし傘のころころと轉がり出るを、いま/\しい奴めと腹立たしげにいひて、取止めんと手を延ばすに、膝へ乘せて置きし小包み意久地もなく落ちて、風呂敷は泥に、我着る物の袂までを汚しぬ。
見るに氣の毒なるは雨の中の傘なし、途中に鼻緒を踏み切りたるばかりは無し、美登利は障子の中ながら硝子ごしに遠く眺めて、あれ誰れか鼻緒を切つた人がある、母さん切れを遣つても宜う御座んすかと尋ねて、針箱の引出しから友仙ちりめんの切れ端をつかみ出し、庭下駄はくも鈍《もど》かしきやうに、馳せ出でゝ椽先の洋傘《かうもり》さすより早く、庭石の上を傳ふて急ぎ足に來たりぬ。
それと見るより美登利の顏は赤う成りて、何のやうの大事にでも逢ひしやうに、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後《うしろ》の見られて、恐る/\門の侍《そば》へ寄れば、信如もふつと振返りて、此れも無言に脇を流るゝ冷汗、跣足になりて逃げ出したき思ひなり。
平常《つね》の美登利ならば信如が難義の體を指さして、あれ/\彼の意久地なしと笑ふて笑ふて笑ひ拔いて、言ひたいまゝの惡まれ口、よくもお祭りの夜は正太さんに仇をするとて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちやんを擲《たゝ》かせて、お前は高見で采配《さいはい》を振つてお出なされたの、さあ謝罪《あやまり》なさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎女郎と長吉づらに言はせるのもお前の指圖、女郎でも宜いでは無いか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、私には父さんもあり母さんもあり、大黒屋の旦那も姉さんもある、お前のやうな腥《なまぐさ》のお世話には能うならぬほどに餘計な女郎呼はり置いて貰ひましよ、言ふ事があらば陰のくす/\ならで此處でお言ひなされ、お相手には何時でも成つて見せまする、さあ何とで御座んす、と袂を捉《と》らへて捲《まく》しかくる勢ひ、さこそは當り難うもあるべきを、物いはず格子のかげに小隱れて、さりとて立去るでも無しに唯うぢ/\と胸とゞろかすは平常の美登利のさまにては無かりき。
十三
此處は大黒屋のと思ふ時より信如は物の恐ろしく、左右を見ずして直《ひた》あゆみに爲しなれども、生憎《あやにく》の雨、あやにくの風、鼻緒をさへに踏切りて、詮なき門下に紙縷を縷《よ》る心地、憂き事さま/″\に何うも堪へられぬ思ひの有しに、飛石の足音は背より冷水をかけられるが如く、顧みねども其人と思ふに、わな/\と慄へて顏の色も變るべく、後向きに成りて猶も鼻緒に心を盡すと見せながら、半は夢中に此下駄いつまで懸りても履ける樣には成らんともせざりき。
庭なる美登利はさしのぞいて、ゑゝ不器用な彼んな手つきして何うなる物ぞ、紙縷は婆々縷《ばゝより》、藁しべな
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