て居る、本當に弱つて居るのだ、と信如の意久地なき事を言へば、左樣だらうお前に鼻緒の立ッこは無い、好いや己れの下駄を履いて行きねへ、此鼻緒は大丈夫だよといふに、夫れでもお前が困るだらう。何己れは馴れた物だ、斯うやつて斯うすると言ひながら急遽《あわたゞ》しう七分三分に尻端折て、其樣な結ひつけなんぞより是れが爽快《さつぱり》だと下駄を脱ぐに、お前|跣足《はだし》になるのか夫れでは氣の毒だと信如困り切るに、好いよ、己れは馴れた事だ信さんなんぞは足の裏が柔らかいから跣足で石ごろ道は歩けない、さあ此れを履いてお出で、と揃へて出す親切さ、人には疫病神のやうに厭はれながらも毛虫眉毛を動かして優しき詞のもれ出るぞをかしき。信さんの下駄は己れが提げて行かう、臺處《だいどこ》へ抛り込んで置たら子細はあるまい、さあ履き替へて夫れをお出しと世話をやき、鼻緒の切れしを片手に提げて、それなら信さん行てお出、後刻《のち》に學校で逢はうぜの約束、信如は田町の姉のもとへ、長吉は我家の方《かた》へと行別れるに思ひの止まる紅入の友仙は可憐《いぢら》しき姿を空しく格子門の外にと止めぬ。
十四
此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天氣に大鳥神社の賑ひすさまじく此處をかこつけに檢査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ、地維《ちい》かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき、中之町の通りは俄かに方角の替りしやうに思はれて、角町《すみちやう》京町《きやうまち》處々のはね橋より、さつさ押せ/\と猪牙《ちよき》がゝつた言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀《もゝさへ》づりより、優にうづ高き大籬《おほまがき》の樓上まで、絃歌の聲のさま/″\に沸き來るやうな面白さは大方の人おもひ出でゝ忘れぬ物に思《おぼ》すも有るべし。正太は此日日がけの集めを休ませ貰ひて、三五郎が大頭《おほがしら》の店を見舞ふやら、團子屋の背高が愛想氣のない汁粉やを音づれて、何うだ儲けがあるかえと言へば、正さんお前好い處へ來た、我れが※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]この種なしに成つて最う今からは何を賣らう、直樣煮かけては置いたけれど中途《なかたび》お客は斷れない、何うしような、と相談を懸けられて、智惠無しの奴め大鍋の四邊《ぐるり》に夫《そ》れッ位無駄がついて居るでは無いか、夫れへ湯を廻して砂糖さへ甘くすれば十人前や二十人は浮いて來よう、何處でも皆な左樣するのだお前の店《とこ》ばかりではない、何此騷ぎの中で好惡《よしあし》を言ふ物が有らうか、お賣りお賣りと言ひながら先に立つて砂糖の壺を引寄すれば、目ッかちの母親おどろいた顏をして、お前さんは本當に商人《あきんど》に出來て居なさる、恐ろしい智惠者だと賞めるに、何だ此樣な事が智惠者な物か、今横町の潮吹きの處で※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]が足りないッて此樣やつたを見て來たので己れの發明では無い、と言ひ捨てゝ、お前は知らないか美登利さんの居る處を、己れは今朝から探して居るけれど何處へ行たか筆やへも來ないと言ふ、廓内《なか》だらうかなと問へば、むゝ美登利さんはな今の先己れの家の前を通つて揚屋町の刎橋《はねばし》から這入つて行た、本當に正さん大變だぜ、今日はね、髮を斯ういふ風にこんな嶋田に結つてと、變てこな手つきして、奇麗だね彼の娘《こ》はと鼻を拭つゝ言へば、大卷さんより猶|美《い》いや、だけれど彼の子も華魁《おいらん》に成るのでは可憐さうだと下を向ひて正太の答ふるに、好いじやあ無いか華魁になれば、己れは來年から際物屋《きはものや》に成つてお金をこしらへ驍ェね、夫れを持つて買ひに行くのだと頓馬を現はすに、洒落《しやら》くさい事を言つて居らあ左うすればお前はきつと振られるよ。何故々々。何故でも振られる理由《わけ》が有るのだもの、と顏を少し染めて笑ひながら、夫れじやあ己れも一廻りして來ようや、又後に來るよと捨て臺辭して門に出て、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、と怪しきふるへ聲に此頃此處の流行《はやり》ぶしを言つて、今では勤めが身にしみてと口の内にくり返し、例の雪駄の音たかく浮きたつ人の中に交りて小さき身躰は忽ちに隱れつ。
揉まれて出し廓の角、向ふより番頭新造のお妻と連れ立ちて話しながら來るを見れば、まがひも無き大黒屋の美登利なれども誠に頓馬の言ひつる如く、初々しき大嶋田結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲《べつかう》のさし込、總《ふさ》つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色のたゞ京人形を見るやうに思はれて、正太はあつとも言はず立止まりしまゝ例《いつも》の如くは抱きつきもせで打守るに、彼方《こなた》は正太さんかとて走り寄り、お妻どんお前買ひ物が有らば最う此處でお別れにしまし
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