見て呉れとてくる/\と剃たる頭を撫でゝ思案に能はぬ風情、はあ/\と聞居る人も詞は無くて諸共に溜息なり。
 娘は先刻《さき》の涙に身を揉みしかば、さらでもの疲れ甚しく、なよなよと母の膝へ寄添ひしまゝ眠れば、お倉お倉と呼んで附添ひの女子と共に郡内の蒲團の上へ抱き上げて臥さするにはや正體も無く夢に入るやうなり、兄といへるは靜に膝行《ゐざり》寄りてさしのぞくに、黒く多き髮の毛を最《いと》惜しげもなく引つめて、銀杏返しのこはれたるやうに折返し折返し髷形《まげなり》に疊みこみたるが、大方横に成りて狼藉の姿なれども、幽靈のやうに細く白き手を二つ重ねて枕のもとに投出し、浴衣の胸少しあらはに成りて締めたる緋ぢりめんの帶あげの解けて帶より落かゝるも婀《なまめ》かしからで慘ましのさまなり。
 枕に近く一脚の机を据ゑたるは、折ふし硯々と呼び、書物よむとて有し學校のまねびをなせば、心にまかせて紙いたづらせよとなり、兄といへるは何心なく積重ねたる反古紙《ほごがみ》を手に取りて見れば、怪しき書風に正體得しれぬ文字を書ちらして、是れが雪子の手跡かと情なきやうなる中に、鮮かに讀まれたるは村といふ字、郎といふ字、あゝ植村録郎《うゑむらろくらう》、植村録郎、よむに得堪へずして無言にさし置きぬ。

       (四)

 今日は用なしの身なればとて兄は終日此處にありけり、氷を取寄せて雪子の頭を冷す看護《つきそひ》の女子《をんな》に替りて、どれ少し私がやつて見やうと無骨らしく手を出すに、恐れ入ます、お召物が濡れますと言ふを、いゝさ先《まづ》させて見てくれろとて氷袋の口を開いて水を搾り出す手振りの無器用さ、雪や少しはお解りか、兄樣が頭《つむり》を冷して下さるのですよとて、母の親心付れども何の事とも聞分ぬと覺しく、目は見開きながら空を眺めて、あれ奇麗な蝶が蝶がと言ひかけしが、殺してはいけませんよ、兄樣兄樣と聲を限りに呼べば、こら何うした、蝶も何も居ない、兄は此處だから、殺しはせぬから安心して、な、宜いか、見えるか、ゑ、見えるか、兄だよ、正雄だよ、氣を取直して正氣になつて、お父さんやお母さんを安心させて呉れ、こら少し聞分けて呉れ、よ、お前が此樣な病氣になつてから、お父樣もお母樣も一晩もゆるりとお眠《やすみ》に成つた事はない、お疲れなされてお痩せなされて介抱して居て下さるのを孝行のお前に何故わからない、平常《つね》は道理がよく了解《わか》る人では無いか、氣を靜めて考へ直して呉れ、植村の事は今更取かへされぬ事であるから、跡でも懇に吊《ともら》つて遣れば、お前が手づから香花《かうはな》でも手向れば、彼れは快よく瞑する事が出來ると遺書にも有つたと言ふでは無いか、彼れは潔よく此世を思ひ切つたので、お前の事も合せて思ひ切つたので決《けツ》して未練は殘して居なかつたに、お前が此樣に本心を取亂して御兩親に歎をかけると言ふは解らぬでは無いか、彼れに對してお前の處置の無情であつたも彼は決して恨んでは居なかつた、彼れは道理を知つて居る男であらう、な、左樣であらう、校内|一流《いち》の人だとお前も常に褒めたではないか、其人であるから決してお前を恨んで死ぬ、其樣な事はある筈がない、憤りは世間に對してなので、既に其事《それ》は人も知つて居る事なり遺書によつて明かでは無いか、考へ直して正氣に成つて、其の後の事はお前の心に任せるから思ふまゝの世を經るが宜い、御兩親のある事を忘れないで、御兩親が何れほどお歎きなさるかを考へて、氣を取直して呉れ、ゑ、宜いか、お前が心で直さうと思へば今日の今も直れるでは無いか、醫者にも及ばぬ、藥にも及ばぬ、心一つ居處をたしかにしてな、直つて呉れ、よ、よ、こら雪、宜いか、解つたかと言へば、唯うなづいて、はいはいと言ふ。
 女子どもは何時しか枕もとを遠慮《はづ》して四邊には父と母と正雄のあるばかり、今いふ事は解るとも解らぬとも覺えねども兄樣兄樣と小さき聲に呼べば、何か用かと氷袋を片寄せて傍近く寄るに、私を起して下され、何故か身體が痛くてと言ふ、夫れは何時も氣の立つまゝに驅け出して大の男に捉へられるを、振はなすとて恐ろしい力を出せば定めし身も痛からう生疵《なまきず》も處々に有るを、それでも身體の痛いが知れるほどならばと果敢なき事をも兩親《ふたおや》は頼母しがりぬ。
 お前の抱かれて居るは誰君《どなた》、知れるかへと母親の問へば、言下に兄樣で御座りませうと言ふ、左樣わかれば最う子細はなし、今話して下された事覺えてかと言へば、知つて居まする、花は盛りにと又あらぬ事を言ひ出せば、一同かほを見合せて情なき思ひなり。
 良《やゝ》しばしありて雪子は息の下に極めて恥かしげの低き聲して、最う後生お願ひで御座りまする、其事は言ふて下さりますな、其やうに仰せ下さりましても私にはお返事の致しやうが御座りませぬと言ひ出るに、何をと母が顏を出せば、あ、植村さん、植村さん、何處へお出遊ばすのと岸破《がば》と起きて、不意に驚く正雄の膝を突のけつゝ椽の方へと驅け出すに、それとて一同ばら/\と勝手より太吉おくらなど飛來るほどに左のみも行かず椽先の柱のもとにぴたりと坐して、堪忍して下され、私が惡う御座りました、始めから私が惡う御座りました、貴君に惡い事は無い、私が、私が、申さないが惡う御座りました、兄と言ふては居りまするけれど。むせび泣きの聲聞え初めて斷續の言葉その事とも聞わき難く、半かゝげし軒ばの簾《すだれ》、風に音する夕ぐれ淋し。

       (五)

 雪子が繰かへす言の葉は昨日も今日も昨一日《をとゝひ》も、三月の以前も其前も、更に異なる事をば言はざりき、唇に絶えぬは植村といふ名、ゆるし給へと言ふ言葉、學校といひ、手紙といひ、我罪、おあとから行まする、戀しき君、さる詞をば次第なく並べて、身は此處に心はもぬけの※[#「士/冖/一/几」、第4水準2−5−22]《から》に成りたれば、人の言へるは聞分るよしも無く、樂しげに笑ふは無心の昔しを夢みてなるべく、胸を抱きて苦悶するは遣るかた無かりし當時のさまの再び現にあらはるゝなるべし。
 おいたはしき事とは太吉も言ひぬ、お倉も言へり、心なきお三どんの末まで孃さまに罪ありとはいささかも言はざりき、黄八丈の袖の長き書生羽織めして、品のよき高髷にお根がけは櫻色を重ねたる白の丈長、平打の銀簪《ぎんかん》一つ淡泊《あつさり》と遊して學校がよひのお姿今も目に殘りて、何時舊のやうに御平癒《おなほり》あそばすやらと心細し、植村さまも好いお方であつたものをとお倉の言へば、何があの色の黒い無骨らしきお方、學問はゑらからうとも何うで此方《うち》のお孃さまが對にはならぬ、根つから私は褒めませぬとお三の力めば、夫れはお前が知らぬから其樣な憎くていな事も言へるものの、三日|交際《つきあひ》をしたら植村樣のあと追ふて三途の川まで行きたくならう、番町の若旦那を惡いと言ふではなけれど、彼方とは質《たち》が違ふて言ふに言はれぬ好い方であつた、私でさへ植村樣が何だと聞いた時にはお可愛想な事をと涙がこぼれたもの、お孃さまの身に成つては愁《つ》らからうでは無いか、私やお前のやうなおつと來い[#「おつと來い」に傍点]ならば事は無いけれど、不斷つゝしんでお出遊ばすだけ身にしみる事も深からう、彼の親切な優しい方を斯う言ふては惡いけれど若旦那さへ無かつたらお孃さまも御病氣になるほどの心配は遊ばすまいに、左樣いへば植村樣が無かつたら天下《てんが》泰平に納まつたものを、あゝ浮世は愁らいものだね、何事も明すけに言ふて除ける事が出來ぬからとて、お倉はつく/″\儘ならぬを傷みぬ。
 つとめある身なれば正雄は日毎に訪ふ事もならで、三日おき、二日おきの夜な/\車を柳のもとに乘りすてぬ、雪子は喜んで迎へる時あり、泣いて辭す時あり、稚子《をさなご》のやうに成りて正雄の膝を枕にして寐る時あり、誰が給仕にても箸をば取らずと我儘をいへれど、正雄に叱られて同じ膳の上に粥の湯をすゝる事もあり、癒つて呉れるか。癒りまする。今日癒つて呉れ。今日癒りまする、癒つて兄樣のお袴を仕立て上げまする、お召も縫ふて上げまする。夫れは辱《かたじけな》し早く癒つて縫ふて呉れと言へば、左樣しましたらば植村樣《うゑむらさむ》を呼んで下さるか、植村樣に逢はして下さるか、むゝ逢はして遣る、呼んでも來る、はやく癒つて御兩親に安心させて呉れ、宜いかと言へば、あゝ明日は癒りますると憚りもなく言ひけり。
 正しく言ひしを心頼みに有るまじき事とは思へども明日は日暮も待たず車を飛ばせ來るに、容體こと/″\く變りて何を言へども嫌々とて人の顏をば見るを厭ひ、父母をも兄をも女子どもをも寄せつけず、知りませぬ、知りませぬ、私は何も知りませぬとて打泣くばかり、家の中をば廣き野原と見て行く方なき歎きに人の袖をもしぼらせぬ。
 俄かに暑氣つよく成し八月の中旬《なかば》より狂亂いたく募りて人をも物をも見分ちがたく、泣く聲は晝夜に絶えず、眠るといふ事ふつに無ければ落入たる眼に形相すさまじく此世の人とも覺えず成ぬ、看護の人も疲れぬ、雪子の身も弱りぬ、きのふも植村に逢ひしと言ひ、今日も植村に逢ひたりと言ふ、川一つ隔てゝ姿を見るばかり、霧の立おほふて朧氣なれども明日は明日はと言ひて又そのほかに物いはず。
 いつぞは正氣に復《かへ》りて夢のさめたる如く、父樣母樣といふ折の有りもやすと覺束なくも一日二日と待たれぬ、空蝉《うつせみ》はからを見つゝもなぐさめつ、あはれ門なる柳に秋風のおと聞こえずもがな。
[#地から2字上げ](明治二十八年八月二十七――三十一日「讀賣新聞」)



底本:講談社「日本現代文学全集 10 樋口一葉集」
   1962(昭和37)年11月19日第1刷発行
   1969(昭和44)年10月1日第5刷発行
入力:青空文庫
校正:米田進、小林繁雄
1997年10月15日公開
2004年3月19日修正
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