りませぬと言ひ出るに、何をと母が顏を出せば、あ、植村さん、植村さん、何處へお出遊ばすのと岸破《がば》と起きて、不意に驚く正雄の膝を突のけつゝ椽の方へと驅け出すに、それとて一同ばら/\と勝手より太吉おくらなど飛來るほどに左のみも行かず椽先の柱のもとにぴたりと坐して、堪忍して下され、私が惡う御座りました、始めから私が惡う御座りました、貴君に惡い事は無い、私が、私が、申さないが惡う御座りました、兄と言ふては居りまするけれど。むせび泣きの聲聞え初めて斷續の言葉その事とも聞わき難く、半かゝげし軒ばの簾《すだれ》、風に音する夕ぐれ淋し。
(五)
雪子が繰かへす言の葉は昨日も今日も昨一日《をとゝひ》も、三月の以前も其前も、更に異なる事をば言はざりき、唇に絶えぬは植村といふ名、ゆるし給へと言ふ言葉、學校といひ、手紙といひ、我罪、おあとから行まする、戀しき君、さる詞をば次第なく並べて、身は此處に心はもぬけの※[#「士/冖/一/几」、第4水準2−5−22]《から》に成りたれば、人の言へるは聞分るよしも無く、樂しげに笑ふは無心の昔しを夢みてなるべく、胸を抱きて苦悶するは遣るかた無かりし當時のさまの再び現にあらはるゝなるべし。
おいたはしき事とは太吉も言ひぬ、お倉も言へり、心なきお三どんの末まで孃さまに罪ありとはいささかも言はざりき、黄八丈の袖の長き書生羽織めして、品のよき高髷にお根がけは櫻色を重ねたる白の丈長、平打の銀簪《ぎんかん》一つ淡泊《あつさり》と遊して學校がよひのお姿今も目に殘りて、何時舊のやうに御平癒《おなほり》あそばすやらと心細し、植村さまも好いお方であつたものをとお倉の言へば、何があの色の黒い無骨らしきお方、學問はゑらからうとも何うで此方《うち》のお孃さまが對にはならぬ、根つから私は褒めませぬとお三の力めば、夫れはお前が知らぬから其樣な憎くていな事も言へるものの、三日|交際《つきあひ》をしたら植村樣のあと追ふて三途の川まで行きたくならう、番町の若旦那を惡いと言ふではなけれど、彼方とは質《たち》が違ふて言ふに言はれぬ好い方であつた、私でさへ植村樣が何だと聞いた時にはお可愛想な事をと涙がこぼれたもの、お孃さまの身に成つては愁《つ》らからうでは無いか、私やお前のやうなおつと來い[#「おつと來い」に傍点]ならば事は無いけれど、不斷つゝしんでお出遊ばすだけ身にし
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