圓から最高十三圓と云ふ取りきめである。尚その他の待遇をあげると、座附太夫と別看板をあげること、汽車汽船は二等、乘物のある土地では凡てこれを支給し、宿は別館で附人一人の實費を全部負擔する他に髯剃一週二度、散髮二週一度實費を辨償する。興行日數は通例一回二十四五日と云ふから追抱太夫の收入は相當額に達する譯である。そしてその勤務は主として世話物語りが持場で、之れは太夫の選擇に依つて毎日出し物をきめるが、別に忠臣藏の九段目と太閤記の十段とは必らず座元の指定通り語らねばならぬ義務を負はされる。但し座の弟子達に對する稽古は自由で、必らずしもせねばならぬ義務はなく、太夫の心持次第と云ふことになつてゐると云ふ。
人形座の現在に於ける社會的地位に就いては既に古來の特殊的な待遇を以て扱はれることはなくなつてゐるやうである。が矢張り結婚その他の關係になると一般の人から好まれない模樣が見える。彼等が特殊な部落であると云ふ氣持は一種拔き難い觀念となつて他地方の人々の間に殘つて居り、ともすればそれが外に表はれて、一般民衆から好感を持たれない形となつてゐることは蔽ひ難い事實である。
然し私の見た限りの上村源之丞の操は殆ど文樂座のそれと大差はなかつた。主役の人形を三人で使ふのも、人形の眼・眉・口・指等が動くのも、又人形の大さも殆ど同じである。それとこれとは恐らく創設以來密接な相關關係があつて、相互に影響し合つたであらうと云ふことは想像に難くない。義太夫物で一番古いとされてゐるのは矢張り近松作の「國性爺」と「心中天網島」であるが、それとても敢へて文樂以前の古體、特別に舊い形式手法が殘つてゐるのではない。勿論細部に渉つて稠密な比較研究を行つたならば、地方的な色彩なり古風な樣式なりが保存されてゐるだらうと云ふことは否定されない。だが之れは一つの大きなメトオドのなかの小さな變化であるにとどまつて、メトオドそのものの相違と見なすことは出來ない。從つてそこには淡路の人形操を特質づけるものが存在しない。この意味から云へば上村源之丞の操は方法論的にも形態論的にも文樂の操と全然同じ範疇に屬するものと斷定して差支へないのである。
然しながらそれは義太夫物に限つての話である。淡路ではこの外に必らず序曲的上演題目として「夷舞はし」「三番叟」の二曲を持つてゐることを忘れてはならない。此の人形に限つて二人が遣ふ(一人が頭
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