民族の土蜘蛛やアイヌ族にも知られてゐなかつた。銅及鐵の採鑛は知られてゐたらしいが黄金の採鑛精練には通じてゐなかつたらしい。それで彼等北部九州の部族は海上交通權を握ると共に一方日本島内に海陸相連絡して次第に遠く深く入りこんで行つて、金銀銅の諸鑛山を求めたのであらう。そして彼等の足跡の至る所八幡神の信仰を殘して行つた。これが八幡の社が日本全國にあまねく分布してゐる理由であらうと思ふ。夷三郎の方は海上の神として何處までも海邊にとどまつた。海上の神はやがて海産物の神となり、次いで海の産物と山野の産物との交換、山の物と田の物、工作物と農作物、これ等物々交換の市の神となり、更に轉じて商ひの神となつた。ここに夷三郎信仰の定着を見る。陸へ上つた八幡神はその定着の經路が明かでないが、一つは神功皇后三韓征伐に對する軍功と、採鑛冶金の術が武器の製作と密接に關係してゐる處から武家の守護神となり、一般民衆の爲めには惡魔折伏の神となつたのではなからうか。

         六、信仰の複合と技術の複合

 八幡神と夷三郎神とは常に不離の關係にあり、人形操はまたこの二神に必らず結合してゐるものとする。然しながら此の筑紫の宇佐八幡に隷屬する傀儡子と攝津西宮廣田神社の傀儡子とが全然同一のものであつたとは考へられない。何故なら西宮の傀儡子は産所であり、産所と云ふのは前述のやうに先住民族のうち大和民族に同化し切れずに取殘されて賤者階級に落された集團であるに反して、筑紫の宇佐八幡のそれは印度支那系統の別種の民族に屬するものと信じられるからである。
 そこで考へられるのは信仰の複合と云ふことである。産所の傀儡子の人形は、「人形の二系統」で述べたやうに、私はおしら神系統のとり物信仰から發達したものと考へてゐる。おしら神が最初カギ形の木の枝であつたのが次第に生長して人の形を取るやうになつたことは柳田氏の該博な研究に依つて明かとなつた。從つておしら神時代のそれはただ人形《ひとがた》であるにとどまつて、これを手に執り持つことに依つてその巫女は神格を得、神人交通の靈力を得たのである。葬送の業を掌つてゐた土師部族の産所が神靈界に交渉を持つて、斯う云ふおしら神なぞに依つて除禍招福の力を持つと云ふ風な信仰を集めるやうに一般民の間に立廻つたことは當然と考へられる。然も初めにはただ執り物であり神格の表象に過ぎなかつたおしら神が
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