腹の中で「大事になさい」と云ひ殘して
元來た通へ引返へした。
ふり返つた時、唖の小供がふりかへつて自分を見た。
眼はよく見えると見える。
太陽のやうに強い氣性で光つてゐた。
自分は目がくらんでしまつた。
どこを歩いたのか滅茶々々に歩き廻つて畠へ來た。
興奮も去つた。
そこは靜かだ。
夢がさめたやうに
自分は沈み込んで孤鼠々々家へ歸つた。
[#地から1字上げ](一九一八、三、三〇)
若い母
若い娘がこの頃生れた許りの
赤ん坊を脊負つて
買ひ物に澤山出た女の中に交つて歩いて居る
彼女はこの新らしい經驗を恥かし相に顏に現はす程
喜んで居る
彼女の笑ひには得意と羞恥[#「羞恥」は底本では「差恥」]があらはれて居る
彼女は木綿の小さつぱりした娘々しい着物を着て
赤ん坊にも贅澤になら無い愛の籠つた新しい着物を着せて居る。
彼女の夫は役所にでも行つて居るのだらう
彼女はまるで喜びに壓倒されて歩いて居る
彼女の前に全世界はどんなに輝いて居るだらう
彼女の心はどんなに賑つて居るだらう
彼女は手柄をしたのだ。
涙ぐみたい程愛の激情に彼女は迫られて居るのだ、
見るものが何も彼も新しく見えるのだ、
見よ若き母が隱し得無い喜びに輝きつゝ
赤ん坊を脊負つて買物に歩むのを
その素直の姿の娘らしいつゝましさを
その質素な姿の美くしさを。
雨上り
雨が降つた
がすぐ止んだ
晴れ上つた空には
濡れた雲が濛々と薄く濃く胞衣のやうに無樣に漂つて居る。
その上に今月が安々と生んだ許りの星が赤く輝いて居る
何も彼も水々しい
母なる月は少し※[#「宀/婁」、53−上−2]れて、然します/\美しく嬉し相に光つてゐる
下界では人は無言で、水たまりの出來た道を拾ひ歩いて居る。
何と云ふ靜かさだ。
天上の騷ぎも知ら無いですんだ樣に
然うしてすつかりと空はとり形づけられて夜は晴れ渡つてゆく
安産を祝ふやうに數多の星が盛裝して月の前に揃つて舞踏する。
父なる太陽がどこからか祝福の光りを一同に送つてゐる。
鶴
動物園の鐵網の中で
ある限りの澤山の鶴が
急に一齊に啼き立てる
何か彼等の上を目に見えぬものが掠め去つたのか
鴉でもおどろかしたのか
救ひを求めるやうに
何か知らせる如く、
急に騷がしくなつて鶴が啼く
胸の底から出る樣な聲で、怺へ切れ無い聲で
鐵網の中をいそがしく不安相に歩き廻つて
天に訴へる樣
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