で」の類とを区別することが出来ないようであるけれども、仔細に観察すると、「で」に当るものには「田」「泥」「※[#「※」は「泥」の下に「土」、133−1]」のような文字があるに反して、「て」に当るものには、かような文字はない。このことは、あらゆる語における「て」と「で」とに当る万葉仮名について言い得ることである。さすれば、「て」は時として「で」と読む場合に用いられると等しく、「て」にあたる万葉仮名は「で」に当る場合にも用いられることがあるが、「で」に当るものには、「て」に当る場合には用いられない特殊の文字を用いる場合があって、この点で両者の間に区別があり、その表わす音にも違いがあったことがわかるのである。「で」以外の清音の仮名と濁音の仮名との場合もまた同様であるから、当時は、後世の仮名において区別せられる濁音の仮名二十に相当する音が清音のほかにあったこと明らかである。
以上、奈良朝において、後世のあらゆる清音及び濁音の仮名に相当する諸音が区別せられていたことを明らかにしたが、なお当時は、後世の仮名では区別しないような音の区別があったのである。
第一は、「え」の仮名に相当するものであって、これにあたる万葉仮名には、
衣依愛哀埃……………(甲) 延曳叡要……………(乙)
のような文字を用いているが、奈良朝においては、これらは無差別に用いられているのではなく、「得《エ》」「可愛《エ》」「榎《エ》」「荏《エ》」などの諸語の「え」には衣依愛哀埃など(甲)類に属する文字を用いて延曳叡要などを用いず、「兄《エ》」「枝《エ》」「江《エ》」「笛《フエ》」「越え」「見え」「栄え」「崩《ク》え」等の「え」には延曳叡要など(乙)類の文字を用いて(甲)類の文字を用いることなく、その間の区別が厳重である。すなわち、当時は、この二類は、それぞれ別の音を表わしていたのであるが、後世の仮名にはこれを混じて、同じ「え」で表わすようになったものと認められる。
次に「き」の仮名にあたるものも、奈良朝では、
岐支伎妓吉棄枳弃企祇………(甲) 紀記己忌帰幾機基奇綺騎寄貴癸………(乙)
などの文字を用いているが、当時は岐支等の類(甲)と紀記等の類(乙)との二類に分れて、「君《キミ》」「雪《ユキ》」「御酒《ミキ》」「杯《ツキ》」「沖《オキ》」「切《キ》る」「垣《カキ》」「崎《サキ》」「翁《オキナ》」「昨日《キノフ》」「清《キヨ》」「常盤《トキハ》」「明《アキラメ》」「幸《サキハヒ》」「杜若《カキツハタ》」「行き」「蒔《マ》き」「分き」「吹き」「着《キ》」「来《キ》」などの「き」には「岐」「支」の類の文字を用い、「木《キ》」「城《キ》」「月《ツキ》」「槻《ツキ》」「調《ツキ》」「霧《キリ》」「新羅《シラキ》」「尽き」「避《ヨ》き」などの「き」には「紀」「記」の類の文字を用いて、他の類のものを用いることは殆どなく、これも、奈良朝においては、それぞれ別の音を表わしていたと思われるが、後世の仮名ではこれを併せて一様に「き」の仮名で表わすようになったのである。そうして、「き」における二類の別に相当する区別は、濁音「ぎ」の仮名においても見られるのであって、奈良朝に用いられた、
藝儀蟻※[#「※」は「山+耆」、135−2]……………(甲) 疑擬義宜……………(乙)
は、共に「ぎ」にあたる文字であるが、それが二類にわかれて、「雉《キギシ》」「我妹《ワギモ》」「剣《ツルギ》」「鴫《シギ》」「陽火《カギロヒ》」「漕ぎ」「凪《ナ》ぎ」「継ぎ」「仰ぎ」などの「ぎ」には(甲)類に属する文字を用い、「杉《スギ》」「萩《ハギ》」「柳《ヤナギ》」「蓬《ヨモギ》」「過ぎ」などの「ぎ」には(乙)類の文字を用いて、その間に区別がある。そうして、「肝《キモ》」「衣《キヌ》」の「き」に(甲)類の文字を用いるに対して、「むらぎも[#「ぎも」に傍線]」「ありぎぬ[#「ぎぬ」に傍線]」の「ぎ」に(甲)類の文字を用い、「霧《キリ》」の「き」に(乙)類の文字を用いるに対して、「夕霧《ユフギリ》」の「ぎ」に(乙)類の文字を用いているのを見れば、「ぎ」に当る二類はちょうど「き」にあたる二類に相当するもので、「ぎ」の(甲)は「き」の(甲)に、「ぎ」の(乙)は「き」の(乙)に当るものであることがわかるのである。
そのほか、「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」の一つ一つに相当する万葉仮名においても、同様におのおの二つの類に分れて互いに混同せず、その濁音の仮名「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」に当るものにおいてもまた同様であって、これらの各類は、おのおの、違った音を表わしたものと考えられる。
以上、奈良朝においては後世の「え」「き」「け」以下十三の仮名、およびそ
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