であって、必ずしも奈良朝の「伊」「以」の類の発音が、後世の「い」の発音と同じであるというのではなく、その発音については別に考究すべきであるが、奈良朝において「伊」「以」の類の仮名で写された音が、後世においては「い」で書かれる音になったということだけは疑いない(その間に音の変化はあったか無かったかはわからないが)。これを逆に言えば、後世の「い」の仮名で書かれた音に当るものは奈良朝では「伊」「以」の類で書かれた音であるということが出来る。この場合に「い」は仮名としての「い」であって、イという音そのものを指すのではない。それ故、「ゐ」は後世の発音ではイであって、「い」と区別がないけれども、仮名としては後までも「い」とは別のものと考えられているが、奈良朝においても、「い」にあたる「伊」「以」の類があると共に、また「ゐ」にあたる「韋」「偉」「委」「位」「謂」の類が別にあって、「伊」「以」の類とは別の音を表わしていたのである。同様に、後には同音に発音する「え」と「ゑ」、「お」と「を」の仮名も、それぞれこれに相当するものが奈良朝には別類の仮名として存在するのであって、それらは、それぞれ異なった音を表わしていたと思われる。
 かようにして、奈良朝には後世の仮名の一つ一つに相当する四十七の違った音があったことが、その万葉仮名の類別の上から知られるのであるが、仮名には以上四十七のほかになお濁音の仮名があって、清音の仮名と区別せられている。奈良朝の万葉仮名においてはどうかというに、例えば、「まで(迄)」の「で」に当る部分には「弖」「※[#「※」は「低」の右側、132−9]」「田」「低」「※[#「※」は「にんべん(イ)+弖」、132−9]」「泥」「※[#「※」は「泥」の下に「土」、132−9]」「提」「代」「天」「庭」「底」等を用い、「そで(袖)」の「で」の部分には「※[#「※」は「低」の右側]、132−10]」「弖」「低」「田」「泥」「提」等を用いているのであって、これらの文字を、「て」にあたる一類の文字、例えば「てる(照)」の「て」に当る部分に用いられた「弖」「提」「※[#「※」は「低」の右側、132−12]」「底」「天」、助詞「て」に用いられた「天」「弖」「提」「代」「※[#「※」は「低」の右側、132−13]」「帝」などと比較するに、その間に共通の文字が甚だ多く、到底「て」の類と「
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