に傍線]とするのであります。日本語にないような音は押し出してしまって、日本語にあるような音として使う。また我々の使っているメリヤスという語、これも古いスペインの語でありましてmediasという語ですが「ディ」という音が日本にないから、それを日本にあるそれに似た音にして、メリヤス[#リに傍線]としたのであります。「ディ」は聴いた感じが「リ」と似ておりますから、メリヤスとしたのであります。こういう風に日本語にない音が入って来ても、これまで我々がもっている色々違った音の組合せの中のどれかにしてしまうのであります、そういう風に、あるきまった言語において用いるあらゆる音の組合せを音韻組織といっております。
 これはちょうどオルガンとかピアノのキーのようなもので、一つの言語にはちゃんときまった数のキーがあるようなものです。音を発しようとすれば、その中のどれかを叩《たた》くより仕方がない。それ以外の音は出ない。半音ずつの違いによって一箇ずつキーが附いておりますが、それのどれかを使うより仕方がない。それ以外の音は出ない。一つのピアノとかオルガンとかに備え付けられているキーは限られている。これと同じように一つの言語に用いる違った音は一定数のものがちゃんと作りつけになっているような訳です。しかしピアノであったならば、それはかえることは出来ませぬ。いつまでも同じ数だけなのですが、言語においては或る一時代の言語にあったそういう音韻組織は、時の移ると共に段々変って行くことがあります。幾つかきまった数だけ使われておったその音自身が段々変って行く。或る場合には一つの音が二つに分れ、或る場合には二つの音が同じ一つの音になる。そうすると前の時代とは全体の組合せが多少違って来るということは無論ある訳であります。
 現代語については、今申した通り、どれだけ違った音を区別するかということは自身が直接にその言語を聴き、また現在その言語を使っている人々に尋ねてみて判るのであります。ところが古代の言語については、昔の人がどれだけの違った音を聴き分け言い分けておったかということは、昔の人の文字に書いたものによって知るほか方法がないのであります。文字に書いたものと言っても色々あります。例えば、漢字の意味を取って日本語を書いて、例えば「ヤマ」という語を「山」の字で書く。これは「サン」という漢字であって、支那において既に「ヤマ」という意味を表わしている。それを日本語の「ヤマ」という語の意味がちょうど支那の「山」という字の意味に当るものでありますから、「山」の字を書いて「ヤマ」という日本語を表わさしめるのです。このような表わし方もあります。しかしこういう風に日本語を書いたものでは、今言ったような、昔の人がどれだけの音を聴き分けたかということは判りません。これを知るには、どうしても日本語の音を書いたもの、「ヤマ」という語ならば「也麻」と書くとか、仮名で「やま」と書くとか、こういう風に音を写したものによるよりほかないのであります。すなわち片仮名、平仮名、あるいはもっと古い時代では万葉仮名、そういうものによって日本語を書き写したもの、それを材料にして、それによって昔の人がどれだけの音を言い分け聴き分けておったかということを知るのであります。
 ところが、そういう日本語の音を文字で写した場合に、もし同じ音はいつでも同じ文字で書くというのであるならば、問題は余程簡単になります。いつでも「ヤ」という音は「や」という字で書き、これ以外の字では書かないのならば、音の区別というものと文字の違いというものと、ぴたっと一致している訳でありますから、違った文字が幾つあるかということを見れば、違った音が幾つあるかということははっきり判るはずであります。ところが実際はそう簡単には行きません。これは現代の言語について考えてみてもよく解ることですが、我々はちょっと考えると、仮名で日本語を書いた場合には大抵同じ音はいつも同じ文字で写されているという風に考えている。ところが例えば「やま」なら「やま」という字、これは片仮名と平仮名とがありまして「ヤマ」とも書けば「やま」とも書く。この片仮名と平仮名とでも同じでないとも言える。しかしこのことはしばらく別にして、平仮名の場合について考えてみても、現代において変体仮名を使いますから、同じ音をいつも同じ文字では書かず色々違った書き方をしております。「ア」の音でも「あ」とも「※[#「※」は変体仮名、24−7]」とも書く。これは現代の言語ですから、どちらでも音としては同じ音だということが解っておりますが、形から見ると「あ」と「※[#「※」は変体仮名、24−8]」は何ら関係のない形であります。「カ」でも「か」もあれば「※[#「※」は変体仮名、24−9]」もあり「※[#「※」は変体仮名、24−9]」という字もあって、同じ音でありながら、しかも形が皆違っております。字としては違った字であります。こういうものは幾らもあります。これは、我々が今使っている言語でありますから、同じ語であり同じ音であるということが、はっきり判るのでありますが、しかし昔の人の書いたものについて昔の音を研究してみようという場合には現代において我々がそれを同じ音で読むということは、余り大した根拠にはならない。昔の人がどんな風に発音しておったかということが判らなければ駄目であります。しかし昔の人がどんな発音をしておったかということは、我々は直接に知ることは出来ないのであります。その場合にこの「あ」、「※[#「※」は変体仮名、25−2]」、「か」、「※[#「※」は変体仮名、25−2]」、「※[#「※」は変体仮名、25−2]」などの字をたよりにして、それが同じ音であったか、違った音であったかということを考えるよりd方がない。字をたよりにする場合には、これらの違った文字は、まず別のものとして取り扱わなければならぬ。それを同じ音に発音したか違った音に発音したかということは、我々は予《あらかじ》め決めることは出来ないのであります。
 それで、現代においては平仮名において変体仮名というものがあって、同じ音をあらわすのに色々違った形の文字があります。片仮名には今では変体仮名はありませぬが、それでは片仮名にはそんなものは全然ないかというと決してそうではないので、今はありませぬが古い時代には幾らかあって、「キ」に対して「※[#「※」は変体仮名、25−9]」という形があって、「キ」と同じ所に用いてあります。「ミ」に対して、「※[#「※」は変体仮名、25−10]」という形「ア」の字に間違えられやすいものがある。「ワ」に対して「禾」という形がある。「ノ」に対して「※[#「※」は変体仮名、25−11]」という形がある。「ホ」に対して「※[#「※」は変体仮名、25−11]」、こんな形がよく用いられております。それであるから片仮名でもやはり昔の言語の音を知ろうという場合には、字の違いがすなわち音の違いと考えることは出来ないのであって、これとこれとが同じ音であるということは予めきめる訳には行かないのであります。
 その他、今日の普通の書き方によれば「キヤウ」と書いても「キヨウ」と書いても「ケウ」と書いても「ケフ」と書いても「キョー」であります。これは実際に今日の言語においては同じ音でありますが、字の形は皆違っております。字の形をたよりにしてみればこれは皆違った形であるから違った音かと思われます。ところが実際においては皆同じ発音をしている。そうかと思うと「孔子」も仮名では「こうし」と書きますし、「犢」も「こうし」と書きます。これは眼に見える形は同じであっても発音は違っている。そういうことが昔になかったとも言えない。「おる」「をる」「とほる」「あふひ」の「お」「を」「ほ」「ふ」は、今日では皆同じオの音であります。これは発音は同じで字が違っている。字の方を土台にして考えてみると違ったように見えながら、実際はその発音は同じであります。こういうことが我々の眼の前にあるのでありますから、昔においてもこういうことがありはしなかったか。字に書いたものを土台にして調べるという場合には、すぐこんな問題に打突《ぶつ》かるのであります。
 古い時代の古典は、国語の音は万葉仮名で書いてあります。万葉仮名はどうかと言いますと、平仮名や片仮名どころの騒ぎではないので、同じ音に対して非常に沢山の違った文字が使ってある。例えば今日我々が「ア」と読んでいる中にでも「阿」「婀」「鞅」「安」のような色々の文字があって、これらの文字を悉《ことごと》く我々は「ア」と読んでいる。「ア」と読んでいるというのは、我々が「ア」だと考え、皆同じ音だと考えてそう読んでいるのであります。「テ」にしても「弖」「帝」「底」「諦」「題」「堤」「提」「天」こんな色々な字が書いてある。これを我々今日「テ」と読んでいる。字としてみれば皆違った字で、しかも非常に沢山違った文字が使ってある。字が違っているということから言えば「阿」と「婀」と「鞅」と「安」の違いも、これらと「弖」「帝」「底」などとの違いも同じ違いであって、その間に区別はない。それだのに我々は、「阿」「婀」「鞅」「安」等を皆アと読んで同じ音の字とし、「弖」「帝」「底」等を皆テとよんで同じ音であるとし、そして「阿」……の類と「弖」……の類とは互いに違った音の文字だとしているのであるが、それは我々がそういう風に区別しているだけで、昔の人も我々と同じくこれらの文字を「ア」という音「テ」という音に読んだか、また我々が同じ音に読む多くの文字の中、昔は或るものは或る一つの音によみ、或るものは他の違った音によんだことはなかろうかというようなことは、研究してみなければ解らないのであります。我々がそう読むから昔でもそうだったと考えるのは、独断というよりほかありません。
 そうして見ると、古い時代の言語の音のことを考えてみるには、言語の音を写した万葉仮名(仮名や片仮名でもよろしい)によらなければならないのでありますが、仮名として用いられた文字は非常に沢山あります。万葉仮名はすべてで恐らく千以上もあるだろうと思います。それは皆一々違った音をあらわしたとは思われませんが、とにかく文字は皆違っているのですから、その中のどれだけが同じ音で、どれだけが互いに違った音であるか、そういうようなことは予め決める訳には行かない。よく研究してみなければならないのであります。
 現代においてもいわゆる変体仮名というものがあって、同じ音を色々違った文字で書くことがあります。けれども現代においては変体仮名というものは、正体《せいたい》の仮名に対するもので、「か」ならば「か」は正しい形として「※[#「※」は変体仮名、28−8]」とか「※[#「※」は変体仮名、28−8]」とかいうもの、まだ幾らもありますが、こういうものを「か」のかわった形と認め、結局「か」の代用と考えているのであります。その正体の仮名は全体幾つあるかというと、これは普通ならば「いろは」の四十七、その他に「ん」が別に加わっておりますが、まず四十七であります。これを代表するものは「いろは」であります。今はよく五十音が使われますけれども、五十音の中には仮名として同じ形をしているものが三つあって、ア行の「い」とヤ行の「い」、ア行の「う」とワ行の「う」、ア行の「え」とヤ行の「え」は字としては区別がないのですから、仮名として見れば五十音の中から三つ引いた四十七、つまり「いろは」と同じ訳です。その他に「ん」があります。ですから現代においては「いろは」四十七と「ん」、これが現代における違った音を代表する仮名であるというように考えることが出来ます。
 しかし、それではそれで現代の違った音をすべて代表しているかというとそうではありませぬ。その他に濁点があります。これが十八ばかり。それから促《つま》った音、それは「つ」という字を書くのでありますけれども、この仮名は普通の「つ」の音に読む場合と、「有つた[#「つ」に傍線]」という風に促った音と、二つの
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