を書くべきである、昔の人は「己」の「オ」は「お」で書いているから我々も「お」と書くのが正しい、「惜し」の「オ」は「を」類の仮名で書いているから我々も「を」で書くのが正しいと主張しました。その主張は、主張としてはそれに対して異説を唱えることも出来ましょうけれども、契沖の見出した古代の事実、すなわち古代の文献においては発音が同じで区別し難い仮名が立派に使い分けてあるという事実は、何人《なんぴと》といえども疑うことは出来ないものであります。そういう点において契沖の研究が貴いものであるということが出来ようと思います。
そうしてこういう風の区別があるとすれば、昔の文献を研究する場合に「お」類の仮名と「を」類の仮名と混同してはいけない。もし「意能」と書いてあれば「己」の意味である。必ずいつでも「己」であるという訳には行きませぬが、尠《すくな》くも一方「遠能」と書いてあるものとは同じ語ではないということは言える。「意」は「お」類であり、「遠」は「を」類でありますから、同じ語でないということは、はっきり言うことが出来ます。そうすると古典を研究する場合には大変必要なことであります。
かようにして、契沖の研究によって「いろは」四十七文字の中で、発音は同じであっても別の文字となっているものは、古代においても、これにあたる万葉仮名を使いわけて互いに混同することがないということが見付かったのであります。それでは、どうしてかような仮名を区別して用いたかということについては契沖はどう考えていたかは余りはっきりしていません。私どもは、契沖は、昔の人が一度|定《き》めてそういう風に書いたのを後の人がずっと守って来たけれども、余り後の世になるとその定《きま》りを守り切れないで混同したのだと考えていたのであるらしく思うのであります。しかしそれについて述べると時間を取りますから今は略しますが、つまり契沖は発音の区別によるものだということは考えなかったらしく思います。しかしそれはともかくとして、その後の学者になるとこれは明らかに発音の区別によるものである、今は同じであるが昔は発音が違っておったのであると考えるようになりました。実際発音が違っているならばそれを書き違えることはないはずであります。我々は「か」と「き」とを書き違えることはない。発音が違っているから我々は聴き分けることが出来るからであります。そ
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