いが来た。
 二三日前に、弟の厭やがり父母もどうせ死ぬものならといやがっていた、歯の根の膿みを持ったところを院長が切開したところが、いつ迄も出血が止らず、信《のぶ》は力ない声で、
 いやあ、いやあ、切るのいやあ。
と泣いていたがとうとう死ぬ迄水の様な血が止らなかった。前日私の行った時はそれでも、私を喜んで大きく眼をあけていた。弟の病気が重いとは知りつつも死を予期しなかった私達は胸をドキドキさせてかけつけた。やっと[#「やっと」に傍点]間にあった。院長も外の軍医も皆枕元に立っていた。「それ二人とも水をおあげ」と母が出した末期の水を、夢中で信《のぶ》の唇にしめしてやった。何とも書きつくせぬ沈黙の中に、骨肉の四人の者は、次第にうわずりゆく弟の上瞼と、ハッハッハッと、幽かに外へのみつく息を見守っていた。母は静かに瞼をなでおろしてやった……
 のぶさん※[#感嘆符二つ、1−8−75] 苦しくない様に、寝られるお棺にして上げるわ。
 私は、叫んだ。今迄の沈黙はせき[#「せき」に傍点]を切って落とした様に破られて、すすり泣きの声が起った。
 その時八つだった私の胸に之程大きく深く刻まれた悲しみはなかった。声いっぱい私は泣いた。
 淋しいふくろ[#「ふくろ」に傍点]が土人の家の樹で啼いていた。其の日の夕方しめやかに遺骸の柩を守って私共は県庁の官舎へ帰って来た。其当時の嘉義にはまだ本願寺の布教僧が只一人いるのみであった。十日間の病苦におもやせてはいたが信のかおにはどこか稚らしい可愛い俤が残って、大人の死の様に怖い、いやな隈はすこしもなく、蝋燭を灯して湯灌《ゆかん》し経帷子《きょうかたびら》をきせると死んだ子の様にはなく、またしてもこの小さい魂の飛び去った遺骸を悼たんだのであった。棺は私達の希望した寝棺は出来ないで、座る様に出来ていた。
 お葬式は県庁の広庭であった。信光の憐れな死は嘉義の日本人の多大な同情を誘って、関係のない人々迄、日本人という日本人は殆どすべて会葬してくれた為め、大きな椋のこかげの庭はそれらの人々でうずもれた。かの病院長も来て下さった。郊外の火葬場――城門を出て半丁程も行った侘びしい草原の隅の小山でした――へは父と、極く親しい父の部下の人々が十人許りついて行ってくれた。
 火をつける時の胸の中はなかった。ここ迄来てあの子をなくすとは……
と、火葬場から帰って来た父は男泣きに泣いた。母も泣いた、姉も私もないた……
 信はとうとうあの異境で死んでしまった。
 五寸四角位な白木の箱におさめられた遺骨は白の寒冷紗につつまれて、仏壇もない、白木の棚の上に安置された。信のおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]や洋服は皆棺に入れて一処にやいてしまった。
 せめて氷があったら心のこりはないのに……
と父母を嘆かしめた。その氷は信光の死後漸く台南からトロ[#「トロ」に傍点]で届いた。信の基隆で買ったあの汽車のおもちゃもサーベルも、あとから来た荷物の中から出て、また新らしく皆に追懐の涙を流させた。
 父は思出のたね[#「たね」に傍点]となるからとて、信のつねに着ていた、弁慶縞のキモノも水平服も帽もすべて眼につくものは皆焼き捨ててそこいらには信の遺物は何もない様にしてしまった。鍾愛おかなかった末子の死は、一家をどれ程悲嘆せしめたかわからなかった。
 姉と私とは毎日草花をとって来ては信の前へさし、バナナや、竜眼《りゅうがん》肉やスーヤー(果物)や、お菓子でも何でも皆信へおそなえした。
 父も母も多く無言で、母は外出などすこしもせず看護《みと》りつかれて、半病人の様なあおい顔をしつつわずかに私達の世話をしていた。
 土人の子の十五六のを召使っていたけれども友達はなし父母は悲しみに浸ってい、弟はなし、私と姉とは、竜眼の樹かげであそぶにも、学校へ行くにも門先へ出るにも姉妹キッと手をつないで一緒であった。県庁の中の村に私達四五人の日本人の子供の為めに整えられた教場へ五脚ばかしの机をならべて、そこへならいにゆくのにも二人は、土人の子の寮外に送り迎えされていた。全くまだ物騒であった。或夜などは城外迄土匪が来て銃声をきいた事もあった。夕方など私達が門の前で遊んでいると父は自分で出て来て、
 静も久も家へもうおはいり。かぜをひくといけないと、心配しては連れもどって下さった。厳格一方の父も気が弱った。廟をすこし修繕して畳丈け敷いたガランとした、窓只一つのくらぼったい家は子供心にも堪えられぬ淋しさをかんぜしめた。
 城壁のかげの草原には草の穂が赤く垂れ、屋根のひくい土人の家の傍には背高く黍が色づき、文旦や仏手柑や竜眼肉が町にでるころは、ここに始めての淋しい秋が来た。毎夜、城外の土人村からは、チャルメラがきこえ夜芝居――人形芝居――のドラや太鼓などが露っぽい空気を透してあわれっぽくきこえて来た。
 遠く離れている二人の兄に細々と弟の死を報じた手紙の返事が来たのは漸く初秋のころであったろう。
 次兄は大空にかかっている六つの光りの強い星が一時に落ちた夢をみたそうであるし、鹿児島にいた長兄は、つねのままのゴバン縞のキモノで遊びに来たとゆめ見て非常に心痛しているところに電報が行き、いとま乞いに来たのだろうとあとで知った由。二人の兄共殊に愛していた末弟のあまりにももろい死に様に一方ならず力落とししたのであった。
 それから丸一年を嘉義に過し其後台北に来、東都に帰った後も尚お暫らく弟の遺骨はあの白布の包みのまま棚の上に安置して、弟の子供の時の写真と共々、いつも一家のものの愛惜の種となっていたが、桜木町に居を定めて後、一年の夏、父母にまもられて、父の故国松本城の中腹にあつく先祖の碑の傍らに葬られた。
 弟が死んでからもう二十二年になるが、あの様な地で憐れな死に様をした弟の事は今も私の念頭を去らず、死に別れた六つの時の面影が幽かながらなつかしく思い出されるのである。
[#地から1字上げ](「ホトトギス」大正七年十一月)



底本:「杉田久女随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2003(平成15)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「杉田久女全集 第二巻」立風書房
   1989(平成元)年8月発行
初出:「ホトトギス」
   1918(大正7)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:杉田弘晃
校正:noriko saito
2006年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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