男泣きに泣いた。母も泣いた、姉も私もないた……
信はとうとうあの異境で死んでしまった。
五寸四角位な白木の箱におさめられた遺骨は白の寒冷紗につつまれて、仏壇もない、白木の棚の上に安置された。信のおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]や洋服は皆棺に入れて一処にやいてしまった。
せめて氷があったら心のこりはないのに……
と父母を嘆かしめた。その氷は信光の死後漸く台南からトロ[#「トロ」に傍点]で届いた。信の基隆で買ったあの汽車のおもちゃもサーベルも、あとから来た荷物の中から出て、また新らしく皆に追懐の涙を流させた。
父は思出のたね[#「たね」に傍点]となるからとて、信のつねに着ていた、弁慶縞のキモノも水平服も帽もすべて眼につくものは皆焼き捨ててそこいらには信の遺物は何もない様にしてしまった。鍾愛おかなかった末子の死は、一家をどれ程悲嘆せしめたかわからなかった。
姉と私とは毎日草花をとって来ては信の前へさし、バナナや、竜眼《りゅうがん》肉やスーヤー(果物)や、お菓子でも何でも皆信へおそなえした。
父も母も多く無言で、母は外出などすこしもせず看護《みと》りつかれて、半病人の様なあおい顔をしつつわずかに私達の世話をしていた。
土人の子の十五六のを召使っていたけれども友達はなし父母は悲しみに浸ってい、弟はなし、私と姉とは、竜眼の樹かげであそぶにも、学校へ行くにも門先へ出るにも姉妹キッと手をつないで一緒であった。県庁の中の村に私達四五人の日本人の子供の為めに整えられた教場へ五脚ばかしの机をならべて、そこへならいにゆくのにも二人は、土人の子の寮外に送り迎えされていた。全くまだ物騒であった。或夜などは城外迄土匪が来て銃声をきいた事もあった。夕方など私達が門の前で遊んでいると父は自分で出て来て、
静も久も家へもうおはいり。かぜをひくといけないと、心配しては連れもどって下さった。厳格一方の父も気が弱った。廟をすこし修繕して畳丈け敷いたガランとした、窓只一つのくらぼったい家は子供心にも堪えられぬ淋しさをかんぜしめた。
城壁のかげの草原には草の穂が赤く垂れ、屋根のひくい土人の家の傍には背高く黍が色づき、文旦や仏手柑や竜眼肉が町にでるころは、ここに始めての淋しい秋が来た。毎夜、城外の土人村からは、チャルメラがきこえ夜芝居――人形芝居――のドラや太鼓などが露っぽい空気を透してあわれっぽくきこえて来た。
遠く離れている二人の兄に細々と弟の死を報じた手紙の返事が来たのは漸く初秋のころであったろう。
次兄は大空にかかっている六つの光りの強い星が一時に落ちた夢をみたそうであるし、鹿児島にいた長兄は、つねのままのゴバン縞のキモノで遊びに来たとゆめ見て非常に心痛しているところに電報が行き、いとま乞いに来たのだろうとあとで知った由。二人の兄共殊に愛していた末弟のあまりにももろい死に様に一方ならず力落とししたのであった。
それから丸一年を嘉義に過し其後台北に来、東都に帰った後も尚お暫らく弟の遺骨はあの白布の包みのまま棚の上に安置して、弟の子供の時の写真と共々、いつも一家のものの愛惜の種となっていたが、桜木町に居を定めて後、一年の夏、父母にまもられて、父の故国松本城の中腹にあつく先祖の碑の傍らに葬られた。
弟が死んでからもう二十二年になるが、あの様な地で憐れな死に様をした弟の事は今も私の念頭を去らず、死に別れた六つの時の面影が幽かながらなつかしく思い出されるのである。
[#地から1字上げ](「ホトトギス」大正七年十一月)
底本:「杉田久女随筆集」講談社文芸文庫、講談社
2003(平成15)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「杉田久女全集 第二巻」立風書房
1989(平成元)年8月発行
初出:「ホトトギス」
1918(大正7)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:杉田弘晃
校正:noriko saito
2006年3月27日作成
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