一つを残しておいてその視力検査をやったのである。
 アルコホル漬けになってるのは祖父母と子夫妻であった。
「それでつまり。」と弟が兄の顔を見ながら言った。兄は少し赧《あか》くなりながら、
「つまり俺の子にも眇《すがめ》は生れないってことになるからなあ。」
「おめでたはいつでしたっけ?」
「なあに、まだまだだがね。」そして兄は硝子器の中の蜘蛛を窓から外へ抛りだした。
 弟は少し憂鬱になって試験所の外へ出た。彼は兄の幸福などよりは今年納める税金のことの方が大事だと考えた。すると今見てきた蜘蛛が頭の中をがさがさ這廻るような気がした。彼はきゅうに腹立たしくなってピッピッと唾《つば》を飛ばした。

 座敷へ帰ると、嫂《あによめ》が写真を持ってはいってきた。彼はそれを受け取ると微笑しながら机の上の手文庫の中へ抛りこんだ。文庫の中には彼の結婚の候補者の写真がいっぱいになっているのだった。
「あれですもの。」と彼女が言った。彼は硬《こわ》ばった笑いを浮べながら寝転んだ。彼女の赤い腰紐が彼の眼の先きにあった。彼は眼をつぶった。そして始終繰り返えしているヨブ記の「野驢馬あに青草あるに鳴かんや。」という言葉をもう一遍くり返えした。嫂は非難するように彼を見ていた。それからふいと立って縁側に出た。向うの試験所の窓が明いて兄がこちらへ半身を現してるのだった。弟はそれを盗み見てまた眼を閉じた。



底本:「日本文学全集88 名作集(三)昭和編」集英社
   1970(昭和45)年1月25日発行
初出:「文芸時代」1924(大正13)年12月
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2001年11月29日公開
青空文庫作成ファイル:
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