ある。これらは凡て文章の意味を明らかにする以外、音調の関係からして、副詞を入れたいから入れたり、二つで充分に足りている形容詞をも、一つ加えて三つとしたりするのである。コンマの切り方なども、単に意味の上から切るばかりでなく、文調の関係から切る場合が少くない。
されば、外国文を翻訳する場合に、意味ばかりを考えて、これに重きを置くと原文をこわす虞《おそれ》がある。須《すべか》らく原文の音調を呑み込んで、それを移すようにせねばならぬと、こう自分は信じたので、コンマ、ピリオドの一つをも濫《みだ》りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風にして、原文の調子を移そうとした。殊に翻訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏《ひと》えに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労したのだが、さて実際はなかなか思うように行かぬ、中にはどうしても自分の標準に合わすことの出来ぬものもあった。で、自分は自分の標準に依って訳する丈けの手腕《うで》がないものと諦らめても見たが、併しそれは決して本意ではなかったので、其の後《のち》とても長く形の上には、此の方針を取っておった。
処で、出来上った結果はどうか、自分の訳文を取って見ると、いや実に読みづらい、佶倔※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《きっくつごうが》だ、ぎくしゃくして如何にとも出来栄えが悪い。従って世間の評判も悪い、偶々《たまたま》賞美して呉れた者もあったけれど、おしなべて非難の声が多かった。併し、私が苦心をした結果、出来損ったという心持を呑み込んで、此処が失敗していると指摘した者はなく、また、此処は何《ど》の位まで成功したと見て呉れた者もなかった。だから、誉められても標準に無交渉なので嬉しくもなければ、譏《そし》られても見当違いだから、何の啓発される所もなかった。いわば、自分で独り角力を取っていたので、実際毀誉褒貶以外に超然として、唯だ或る点に目を着けて苦労をしていたのである。というのは、文学に対する尊敬の念が強かったので、例えばツルゲーネフが其の作をする時の心持は、非常に神聖なものであるから、これを翻訳するにも同様に神聖でなければならぬ、就ては、一字一句と雖《いえども》、大切にせなければならぬとように信じたのである。
併し乍ら、元来文章の形
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