オば》らく藻掻《もが》いて居る中《うち》に、ふと足掻《あが》きが自由になる。と、領元《えりもと》を撮《つま》まれて、高い高い処からドサリと落された。うろうろとして其処らを視廻すけれど、何だか変な淋しい真暗な処で、誰も居ない。茫然としていると、雨に打れて見る間に濡しょぼたれ、怕《おそ》ろしく寒くなる。身慄《みぶる》い一つして、クンクンと親を呼んで見るが、何処からも出て来ない。途方に暮れて、ヨチヨチと這出し、雨の夜中を唯一人、温《あたた》かな親の乳房を慕って悲し気に啼廻《なきまわ》る声が、先刻《さっき》一度門前へ来て、又何処へか彷徨《さまよ》って行ったようだったが、其が何時《いつ》か又戻って来て、何処を如何《どう》潜り込んだのか、今は啼声が正《まさ》しく玄関先に聞える。

          十二

「阿母《おっか》さん阿母さん、門の中へ入って来たようだよ。」
 と、私が何だか居堪《いたたま》らないような気になって又母に言掛けると、母は気の無さそうな声で、
「そうだね。」
「出て見ようか?」
「出て見ないでも好《い》いよ。寒いじゃないかね。」
「だってえ……あら、彼様《あんな》に啼てる……」
 と、折柄《おりから》絶入るように啼入る狗《いぬ》の声に、私は我知らず勃然《むッくり》起上ったが、何だか一人では可怕《おッかな》いような気がして、
「よう、阿母《おッか》さん、行って見ようよう!」
「本当《ほんと》に仕様がない児《こ》だねえ。」
 と、口小言を言い言い、母も渋々起きて、雪洞《ぼんぼり》を点《つ》けて起上《たちあが》ったから、私も其後《そのあと》に随《つ》いて、玄関――と云ってもツイ次の間だが、玄関へ出た。
 母が履脱《くつぬぎ》へ降りて格子戸の掛金《かきがね》を外し、ガラリと雨戸を繰ると、颯《さっ》と夜風が吹込んで、雪洞《ぼんぼり》の火がチラチラと靡《なび》く。其時小さな鞠《まり》のような物が衝《つ》と軒下を飛退《とびの》いたようだったが、軈《やが》て雪洞《ぼんぼり》の火先《ひさき》が立直って、一道の光がサッと戸外《おもて》の暗黒《やみ》を破り、雨水の処々に溜った地面《じづら》を一筋細長く照出した所を見ると、ツイ其処に生後まだ一ヵ月も経《た》たぬ、むくむくと肥《ふと》った、赤ちゃけた狗児《いぬころ》が、小指程の尻尾《しっぽ》を千切れそうに掉立《ふりた》って、此方《こちら》を瞻上《みあ》げている。形体《なり》は私が寝ていて想像したよりも大きかったが、果して全身雨に濡れしょぼたれて、泥だらけになり、だらりと垂れた割合に大きい耳から雫《しずく》を滴《たら》し、ぽっちりと両つの眼を青貝のように列べて光らせている。
「おやおや、まあ、可愛らしい! ……」と、母も不覚《つい》言って了った。
 況《いわん》や私は犬好だ。凝《じッ》として視ては居られない。母の袖の下から首を出して、チョッチョッと呼んで見た。
 と、左程|畏《おそ》れた様子もなく、チョコチョコと側《そば》へ来て流石《さすが》に少し平べったくなりながら、頭を撫《な》でてやる私の手を、下からグイグイ推上《おしあ》げるようにして、ベロベロと舐廻《なめまわ》し、手を呉れる積《つもり》なのか、頻《しきり》に円い前足を挙げてバタバタやっていたが、果は和《やんわ》りと痛まぬ程に小指を咬む。
 私は可愛《かわゆ》くて可愛くて堪《た》まらない。母の面《かお》を瞻上《みあ》げながら、少し鼻声を出し掛けて、
「阿母《おっか》さん、何か遣って。」
「遣るも好《い》いけど、居附いて了うと、仕方がないねえ。」
 と、口では拒むような事を言いながら、それでも台所へ行って、欠茶碗《かけぢゃわん》に冷飯を盛って、何かの汁を掛けて来て呉れた。
 早速|履脱《くつぬぎ》へ引入れて之を当がうと、小狗《こいぬ》は一寸《ちょっと》香《か》を嗅いで、直ぐ甘《うま》そうに先ずピチャピチャと舐出《なめだ》したが、汁が鼻孔《はな》へ入ると見えて、時々クシンクシンと小さな嚔《くしゃみ》をする。忽ち汁を舐尽《なめつく》して、今度は飯に掛った。他《ほか》に争う兄弟も無いのに、切《しきり》に小言を言いながら、ガツガツと喫《た》べ出したが、飯は未だ食慣《くいな》れぬかして、兎角上顎に引附《ひッつ》く。首を掉《ふ》って見るが、其様《そん》な事では中々取れない。果は前足で口の端《はた》を引掻《ひッか》くような真似をして、大藻掻《おおもが》きに藻掻《もが》く。
 此隙《このひま》に私は母と談判を始めて、今晩一晩泊めて遣ってと、雪洞《ぼんぼり》を持った手に振垂《ぶらさが》る。母は一寸《ちょっと》渋ったが、もう斯うなっては仕方がない。阿爺《おとっ》さんに叱られるけれど、と言いながら、詰り桟俵法師《さんだらぼうし》を捜して来て、履脱《くつぬぎ》の隅に
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