B何かに紛れてランプ配りが晩《おそ》くなった時などは、もう夕闇が隅々へ行渡って薄暗くなった此の部屋の中に、机に茫然《ぼんやり》頬杖を杖《つ》いてる雪江さんの眼鼻の定かならぬ顔が、唯|円々《まるまる》と微白《ほのじろ》く見える。何となく詩的だ。
「晩《おそ》くなりました。」
 とぶっきらぼうの私も雪江さんだけには言いつけぬお世辞も不覚《つい》出て、机の上の毛糸のランプ敷《じき》へ窃《そっ》とランプを載せると
「いいえ、まだ要らないわ。」
 雪江さんは屹度《きっと》斯ういう。これが伯父さんの先生でも有ろうものなら、口を尖《とん》がらかして、「もッと手廻《てまわし》して早うせにゃ不好《いかん》!」と来る所だ。大した相違だ。だから、家《うち》で人間らしいのは雪江さんばかりだと言うのだ。
 其儘出て来るのが、何だか飽気《あっけ》なくて、
「今日|貴嬢《あなた》の琴のお師匠さんの前を通りました。一寸《ちょっと》好《い》い家《うち》ですね。」
「あら、そう」、と雪江さんがいう。心持首を傾《かし》げて、「何時頃?」
「そうさなあ……四時ごろでしたか。」
「じゃ、私《あたし》の行ってた時だわねえ。」
「ええ」、と私は何だか極《きま》りが悪くなって俯向《うつむ》いて了う。
 此話が発展したら、如何《どん》な面白い話になるのだか分らんのだけれど、其様《そん》な時に限って生憎《あいにく》と、茶の間|辺《あたり》で伯母さんの奥さんの意地悪が私を呼ぶ、
「古屋さん! 早くランプを……何を愚図々々してるンだろうねえ。」
 残惜しいけれど、仕方がない。其切りで私は雪江さんの部屋を出て了う。

          三十四

 一番楽しみなのは日曜だ。それも天気だと、朝から客が立込んで私は目が眩《まわ》る程忙しいし、雪江さんもお友達が遊びに来たり、お友達の処へ遊びに行ったりして、私の事なんぞ忘れているから、天気は糞だ。雨降りに限る。就中《なかんずく》伯父さんの先生は何か余儀ない用事があって朝から留守、雪江さんは一日|家《うち》、という雨降の日が一番|好《い》い。
 其様《そん》な日には雪江さんは屹度《きっと》思切て朝寝坊をして、私なんぞは徐々《そろそろ》昼飯が恋しくなる時分に、漸う起きて来る。顔を洗って、御飯を喰べて、其から長いこと掛って髪を結う。結い了う頃は最う午砲《ドン》だけれど、お昼はお腹《なか》が満《くち》くて食べられない。「私《あたし》廃《よ》してよ」、という。
 部屋で机の前で今日の新聞を一寸《ちょっと》読む。大抵続物だけだ。それから編棒と毛糸の球を持出して、暫くは黙って切々《せッせッ》と編物をしている。私が用が有って部屋の前でも通ると、「古屋さん、これ何になると思って?」と編掛けを翳《かざ》して見せる。私が見たんじゃ、何だか円い変なお猪口《ちょく》のような物で、何になるのだか見当が附かないから、分らないというと、でも、まあ、当てて見ろという。熟考の上、「巾着でしょう?」というと、「いいえ」、と頭振《かぶり》を振る。巾着でないとすると、手袋には小さし、靴下でもなさそうだし、「ああ、分った! 匂袋《においぶくろ》だ」、と図星を言った積《つもり》でいうと、雪江さんは吃驚《びっくり》して、「まあ、可厭《いや》だ! 匂袋《においぶくろ》だなんぞッて……其様《そん》な物は編物にゃなくッてよ。」匂袋《においぶくろ》でもないとすると、もう私には分らない。降参して了うと、雪江さんは莞爾《にっこり》ともしないで、「これ、人形の手袋。」
 雪江さんは一つ事を何時迄《いつまで》もしているのは大嫌いだから、私がまだ自分の部屋の長四畳へ帰るか帰らぬ中《うち》に、もう編物を止めて琴を浚《さら》っている。近頃では最うポコンのベコンでも無くなった。斯うして聴いていると、如何《どう》しても琴に違いないと、感心して聴惚《ききほ》れていると、十分と経《た》たぬ中《うち》に、ジャカジャカジャンと引掻廻《ひっかきまわ》すような音がして、其切《それぎり》パタリと、琴の音《ね》は止む……ともう茶の間で若い賑《にぎや》かな雪江さんの声が聞える。
 忽ちドタドタドタと椽側を駈けて来る音がする。下女の松に違いない。後《あと》からパタパタと追蒐《おっか》けて来るのは、雪江さんに極《きま》ってる。玄関で追付《おっつ》いて、何を如何《どう》するのだか、キャッキャッと騒ぐ。松が敵《かな》わなくなって、私の部屋の前を駈脱《かけぬ》けて台所へ逃込む。雪江さんが後《あと》から追蒐《おっか》けて行って、また台所で一騒動やる中《うち》に、ガラガラガチャンと何かが壊《こわ》れる。阿母《かあ》さんが茶の間から大きな声で叱ると、台所は急に火の消えたように闃寂《ひっそり》となる。
 私は、国に居る時分は、お向うのお芳《よっ》ち
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