Aると、伯父さんの先生はもう疾《と》うに役所から退《ひ》けていて、私の帰りを待兼たように、後から後からと用を吩咐《いいつけ》る。それ、郵便を出して来いの、やれ、お客に御飯を出すのだから、急いで仕出し屋へ走れのと、純台所用の外は、何にでも私を使う。時には何の用だか知れもせぬ用に、手紙を持たせられて、折柄《おりから》の雨降にも用捨なく、遠方迄使いに遣られて、つくづく辛いと思った事もある。さもなくば内で取次だが、此奴《こいつ》が余所目《よそめ》には楽なようで、行《や》って見ると中々楽でない。漸く刑法講義の一枚も読んだかと思うと、もう頼もうと来る。聞えん風《ふり》も出来ぬから、渋々|起《た》って取次に出て、倒さになる。私のお辞儀は家内の物議を惹起《ひきおこ》して度々|喧《やかま》しく言われているけれど、面倒臭いから、構わず倒さになる。でも、相手が立派な商人か何かだと、取次栄《とりつぎばえ》がして好《い》い。伯父さんの先生、其様《そん》な時には、ふうふうと二つ返事で、早速お通し申せと来る。上機嫌だ。其代り其様《そん》な客の帰る所を見ると、持って来た物は屹度《きっと》持って帰らない。立派な髭《ひげ》の生えた人もまだ好《い》い。そんなのに限って尊大振って、私が倒さになっても、首一つ動かさぬ代り、取次いでも小言を言われる気遣いはない。反て伯父さんの先生|狼狽《あわ》てて迎えに飛んで出る事もある。一番|六《むず》かしいのは風体の余り立派でない人で、就中《なかんずく》帽子を冠《かぶ》らぬ人は、之を取次ぐに大《おおい》に警戒を要する。自筆の名刺か何かを出されて、之を持って奥へ行くと、伯父さんの先生名刺を一見するや、面《かお》を顰《しか》めて、居ると言ったかという。居るものを居ないと言われますか、と腹の中では議論を吹懸《ふッか》けながら、口へ出しては大人しく、はい、然う申しましたというと、チョッと舌打して、此様《こん》な者を取次ぐ奴が有るか、君は人の見別《みわけ》が出来んで困ると、小言を言って、居ないと言って返して了えという。私は脹《ふく》れ面《つら》をして容易に起《た》たない。すると、最終《しまい》には渋々会いはするが、後で金を持《もっ》てかれたといって、三日も沸々《ぶつぶつ》言ってる。
 沸々《ぶつぶつ》言ったって関《かま》わないが、斯ういう処を傍《はた》から看たら、誰《たれ》が眼にも私は立派な小狐家《おぎつねけ》の書生だ。伯父さんの先生の畜生《ちくしょう》、自分からが其気で居ると見えて、或時|人《ひと》に対《むか》って家《うち》の書生がといっていた。既に相手方が右の始末だから、無理もない話だが、出入《でいり》の者が皆|矢張《やっぱり》私を然う思って、書生扱にする。不平で不平で耐《たま》らないが、一々弁解もして居られんから、私は誠に拠《よん》どころなく不承々々に小狐家の書生にされて了って、而《そう》して月々食料を払っていた。
 が、今となって考えて見ると、不平に思ったのは私が未だ若かったからだ。監督を頼まれたから、引受けて、序《ついで》に書生にして使う、――これが即ち親切というもので、此の外に別に親切というものは、人間に無いのだ。有るかも知れんが、私は一寸《ちょっと》見当らない。

          三十二

 体好く書生にされて私は忌々《いまいま》しくてならなかったが、しかし其でも小狐家《おぎつねけ》を出て了う気にはならなかった。初の中《うち》は国元へも折々の便《たより》に不平を漏して遣ったが、其も後《のち》には弗《ふつ》と止めて了った。さればといって家《うち》での取扱いが変ったのではない。相変らず書生扱にされて、小《こ》ッ甚《ぴど》くコキ使われ、果は下女の担任であった靴磨きをも私の役に振替えられて了った。無論其時は私は憤激した。余程《よッぽど》下宿しようかと思った、が、思ったばかりで、下宿もせんで、為《さ》せられる儘に靴磨きもして、而《そう》して国元へは其を隠して居た。少し妙なようだが、なに、妙でも何でもない。私は実は雪江さんに惚れていたので。
 惚れては居たが、夫だから雪江さんを如何《どう》しようという気はなかった。其時分は私もまだ初心《うぶ》だったから、正直に女に惚れるのは男児の恥辱と心得ていた。女を弄《もてあそ》ぶのは何故だか左程の罪悪とも思って居なかったが、苟《いやしく》も男児たる者が女なんぞに惚れて性根《しょうね》を失うなどと、そんな腐った、そんなやくざな根性で何が出来ると息巻いていた。が、口で息巻く程には心で思っていなかったから、自分もいつか其程に擯斥《ひんせき》する恋に囚《とら》われて了ったのだが、流石《さすが》に囚《とら》われたのを恥て、明かに然うと自認し得なかった気味がある。から、若《もし》其頃誰かが面と向って私に然うと注
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