sきた》って面《まのあた》りに之に対すれば、何となく生きた人と面《かお》を合せたような感がある。懐かしい人達が未だ達者でいた頃の事が、夫《それ》から夫《それ》と止度《とめど》なく想出されて、祖母が縁先に円くなって日向ぼッこをしている格構《かっこう》、父が眼も鼻も一つにして大《おおき》な嚔《くしゃみ》を為《し》ようとする面相《かおつき》、母が襷掛《たすきがけ》で張物をしている姿などが、顕然《まざまざ》と目の前に浮ぶ。
 颯《さッ》と風が吹いて通る。木《こ》の葉がざわざわと騒ぐ。木《こ》の葉の騒ぐのとは思いながら、澄んだ耳には、聴き覚えのある皺嗄《しゃが》れた声や、快活な高声《たかごえ》や、低い繊弱《かぼそ》い声が紛々《ごちゃごちゃ》と絡み合って、何やら切《しき》りに慌《あわただ》しく話しているように思われる。一しきりして礑《はた》と其が止むと、跡は寂然《しん》となる。
 と、私の心も寂然《しん》となる。その寂然《しん》となった心の底から、ふと恋しいが勃々《むらむら》と湧いて出て、私は我知らず泪含《なみだぐ》んだ。ああ、成ろう事なら、此儘此墓の下へ入って、もう浮世へは戻り度《たく》ないと思った。

          九

 先刻《さっき》旧友の一人が尋ねて来た。此人は今でも文壇に籍を置いてる人で、人の面《かお》さえ見れば、君ねえ、ナチュラリーズムがねえと、グズリグズリを始める人だ。
 神経衰弱を標榜している人だから耐《たま》らない。来ると、ニチャニチャと飴を食ってるような弁で、直《すぐ》と自分の噂を始める。やあ、僕の理想は多角形で光沢があるの、やあ、僕の神経は錐《きり》の様に尖《とン》がって来たから、是で一つ神秘の門を突《つッ》いて見る積《つもり》だのと、其様《そんな》事ばかり言う。でなきゃ、文壇の噂で人の全盛に修羅《しゅら》を燃《もや》し、何かしらケチを附けたがって、君、何某《なにがし》のと、近頃評判の作家の名を言って、姦通一件を聞いたかという。また始まったと、うんざりしながら、いやそんな事僕は知らんと、ぶっきらぼうに言うけれど、文士だから人の腹なんぞは分らない。人が知らんというのに反って調子づいて、秘密の話だよ、此場限りだよと、私が十人目の聴手かも知れぬ癖に、悪念《わるねん》を推して、その何某《なにがし》が友の何某《なにがし》の妻と姦通している話を始める。何とかが
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