ス時だろう?」
「まだ早いです、まだ……」
 と私が狼狽《あわ》てて無理に早い事にして了う心を松は察しないで、
「もう九時過ぎたでしょうよ。」
「阿父《とう》さんも阿母《かあ》さんも遅いのねえ。何を為《し》てるンだろう?」
 と又|欠《あく》びをして、「ああああ、古屋さんの勉強の邪魔しちゃッた。私《あたし》もう奥へ行《い》くわ。」
 私が些《ちッ》とも邪魔な事はないといって止めたけれど、最う斯うなっては留《とま》らない、雪江さんは出て行って了う。松も出て行《い》く。私一人になって了った。詰らない……
 ふと雪江さんの座蒲団が眼に入《い》る……之れを見ると、何だか捜していた物が看附《みつか》ったような気がして、卒然《いきなり》引浚《ひっさら》って、急いで起上《たちあが》って雪江さんの跡を追った。
 茶の間の先の暗い処で雪江さんに追付《おッつ》いた。
「なあに? ……」
 と雪江さんの吃驚《びッくり》したような声がして、大方《おおかた》振向いたのだろう、面《かお》の輪廓だけが微白《ほのじろ》く暗中《あんちゅう》に見えた。
「貴嬢《あなた》の座布団を持って来たのです。」
「あ、そうだッけ。忘れちゃッた。爰《ここ》へ頂戴《ちょうだい》」、と手を出したようだった。
 私は狼狽《あわ》てて座布団を後《うしろ》へ匿《かく》して、
「好《い》いです、私が持ってくから。」
「あら、何故?」
「何故でも……好《い》いです……」
「そう……」
 と何だか変に思った様子だったが、雪江さんは又暗中を動き出す。暗黒《くらやみ》で能《よ》くは分らないけれど、其姿が見えるようだ。私も跡から探足《さぐりあし》で行く。何だか気が焦《あせ》る。今だ、今だ、と頭の何処かで喚《わめ》く声がする。如何《どう》か為《し》なきゃならんような気がして、むずむずするけれど、何だか可怕《こわ》くて如何《どう》も出来ない。咽喉《のど》が乾《かわ》いて引付《ひッつ》きそうで、思わずグビリと堅唾《かたず》を呑んだ……と、段々明るくなって、雪江さんの姿が瞭然《はっきり》明るみに浮出す。もう雪江さんの部屋の前へ来て、雪江さんの姿は衝《つい》と障子の中《うち》へ入って了った。
 其を見ると、私は萎靡《がっかり》した。惜しいような気のする一方で、何故だか、まず好かったと安心した気味もあった。で、続いて中へ入って、持って来た座布団を机
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