tが満《くち》くて食べられない。「私《あたし》廃《よ》してよ」、という。
 部屋で机の前で今日の新聞を一寸《ちょっと》読む。大抵続物だけだ。それから編棒と毛糸の球を持出して、暫くは黙って切々《せッせッ》と編物をしている。私が用が有って部屋の前でも通ると、「古屋さん、これ何になると思って?」と編掛けを翳《かざ》して見せる。私が見たんじゃ、何だか円い変なお猪口《ちょく》のような物で、何になるのだか見当が附かないから、分らないというと、でも、まあ、当てて見ろという。熟考の上、「巾着でしょう?」というと、「いいえ」、と頭振《かぶり》を振る。巾着でないとすると、手袋には小さし、靴下でもなさそうだし、「ああ、分った! 匂袋《においぶくろ》だ」、と図星を言った積《つもり》でいうと、雪江さんは吃驚《びっくり》して、「まあ、可厭《いや》だ! 匂袋《においぶくろ》だなんぞッて……其様《そん》な物は編物にゃなくッてよ。」匂袋《においぶくろ》でもないとすると、もう私には分らない。降参して了うと、雪江さんは莞爾《にっこり》ともしないで、「これ、人形の手袋。」
 雪江さんは一つ事を何時迄《いつまで》もしているのは大嫌いだから、私がまだ自分の部屋の長四畳へ帰るか帰らぬ中《うち》に、もう編物を止めて琴を浚《さら》っている。近頃では最うポコンのベコンでも無くなった。斯うして聴いていると、如何《どう》しても琴に違いないと、感心して聴惚《ききほ》れていると、十分と経《た》たぬ中《うち》に、ジャカジャカジャンと引掻廻《ひっかきまわ》すような音がして、其切《それぎり》パタリと、琴の音《ね》は止む……ともう茶の間で若い賑《にぎや》かな雪江さんの声が聞える。
 忽ちドタドタドタと椽側を駈けて来る音がする。下女の松に違いない。後《あと》からパタパタと追蒐《おっか》けて来るのは、雪江さんに極《きま》ってる。玄関で追付《おっつ》いて、何を如何《どう》するのだか、キャッキャッと騒ぐ。松が敵《かな》わなくなって、私の部屋の前を駈脱《かけぬ》けて台所へ逃込む。雪江さんが後《あと》から追蒐《おっか》けて行って、また台所で一騒動やる中《うち》に、ガラガラガチャンと何かが壊《こわ》れる。阿母《かあ》さんが茶の間から大きな声で叱ると、台所は急に火の消えたように闃寂《ひっそり》となる。
 私は、国に居る時分は、お向うのお芳《よっ》ち
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