飲込みも早く、学問、遊芸、両《ふたつ》ながら出来のよいように思われるから、母親は眼も口も一ツにして大驩《おおよろこ》び、尋ねぬ人にまで風聴《ふいちょう》する娘自慢の手前|味噌《みそ》、切《しき》りに涎《よだれ》を垂らしていた。その頃|新《あらた》に隣家へ引移ッて参ッた官員は家内四人|活計《ぐらし》で、細君もあれば娘もある。隣ずからの寒暄《かんけん》の挨拶が喰付きで、親々が心安く成るにつれ娘同志も親しくなり、毎日のように訪《とい》つ訪《とわ》れつした。隣家の娘というはお勢よりは二ツ三ツ年層《としかさ》で、優しく温藉《しとやか》で、父親が儒者のなれの果だけ有ッて、小供ながらも学問が好《すき》こそ物の上手で出来る。いけ年を仕《つかまつっ》てもとかく人|真似《まね》は輟《や》められぬもの、況《まし》てや小供という中《うち》にもお勢は根生《ねおい》の軽躁者《おいそれもの》なれば尚更《なおさら》、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]忽《たちまち》その娘に薫陶《かぶ》れて、起居挙動《たちいふるまい》から物の言いざままでそれに似せ、急に三味線《しゃみせん》を擲却《ほうりだ》して、唐机《とうづくえ》の上に孔雀《くじゃく》の羽を押立る。お政は学問などという正坐《かしこま》ッた事は虫が好かぬが、愛《いと》し娘の為《し》たいと思ッて為《す》る事と、そのままに打棄てて置く内、お勢が小学校を卒業した頃、隣家の娘は芝辺のさる私塾へ入塾することに成ッた。サアそう成るとお勢は矢も楯《たて》も堪《たま》らず、急に入塾が仕たくなる。何でもかでもと親を責《せ》がむ、寝言にまで言ッて責がむ。トいってまだ年端《としは》も往かぬに、殊《こと》にはなまよみの甲斐なき婦人《おんな》の身でいながら、入塾などとは以《もって》の外、トサ一旦《いったん》は親の威光で叱り付けては見たが、例の絶食に腹を空《すか》せ、「入塾が出来ない位なら生ている甲斐がない」ト溜息《ためいき》噛雑《かみま》ぜの愁訴、萎《しお》れ返ッて見せるに両親も我を折り、それ程までに思うならばと、万事を隣家の娘に托《たく》して、覚束《おぼつか》なくも入塾させたは今より二年|前《ぜん》の事で。
お勢の入塾した塾の塾頭をしている婦人は、新聞の受売からグット思い上りをした女丈夫《じょじょうぶ》、しかも気を使ッて一飯の恩は酬《むく》いぬがちでも、睚眥《がいさい》の怨《えん》は必ず報ずるという蚰蜒魂《げじげじだましい》で、気に入らぬ者と見れば何かにつけて真綿に針のチクチク責をするが性分。親の前でこそ蛤貝《はまぐりがい》と反身《そっくりかえ》れ、他人の前では蜆貝《しじみがい》と縮まるお勢の事ゆえ、責《さいな》まれるのが辛らさにこの女丈夫に取入ッて卑屈を働らく。固より根がお茶ッぴいゆえ、その風には染り易いか、忽《たちまち》の中に見違えるほど容子《ようす》が変り、何時しか隣家の娘とは疎々《うとうと》しくなッた。その後英学を初めてからは、悪足掻《わるあがき》もまた一段で、襦袢《じゅばん》がシャツになれば唐人髷《とうじんわげ》も束髪に化け、ハンケチで咽喉《のど》を緊《し》め、鬱陶《うっとう》しいを耐《こら》えて眼鏡を掛け、独《ひとり》よがりの人笑わせ、天晴《あっぱれ》一個のキャッキャとなり済ました。然るに去年の暮、例の女丈夫は教師に雇われたとかで退塾してしまい、その手に属したお茶ッぴい連も一人去り二人|去《さり》して残少《のこりずく》なになるにつけ、お勢も何となく我宿恋しく成ッたなれど、まさかそうとも言い難《か》ねたか、漢学は荒方《あらかた》出来たと拵《こし》らえて、退塾して宿所へ帰ッたは今年の春の暮、桜の花の散る頃の事で。
既に記した如く、文三の出京した頃はお勢はまだ十二の蕾、幅の狭《せば》い帯を締めて姉様《あねさま》を荷|厄介《やっかい》にしていたなれど、こましゃくれた心から、「あの人はお前の御亭主さんに貰《もら》ッたのだヨ」ト坐興に言ッた言葉の露を実《まこと》と汲《くん》だか、初の内ははにかんでばかりいたが、小供の馴《なじ》むは早いもので、間もなく菓子|一《ひとつ》を二ツに割ッて喰べる程|睦《むつ》み合ッたも今は一昔。文三が某校へ入舎してからは相逢《あいあ》う事すら稀《まれ》なれば、況《まし》て一《ひとつ》に居た事は半日もなし。唯今年の冬期休暇にお勢が帰宅した時|而已《のみ》、十日ばかりも朝夕顔を見合わしていたなれど、小供の時とは違い、年頃が年頃だけに文三もよろずに遠慮勝でよそよそしく待遇《もてな》して、更に打解けて物など言ッた事なし。その癖お勢が帰塾した当坐両三日は、百年の相識に別れた如く何《なに》となく心|淋《さび》しかッたが……それも日数《ひかず》を経《ふ》る随《まま》に忘れてしまッたのに、今また思い
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