の口へ掛けたら、どうやら支離滅裂になつて了《しま》ひさうで、どうも申分が多いが、外に之に代るべきものもないから、一時は相応に研究する者もあつた、我国でも読売新聞が其文法を飜訳して附録にして出したことがあるから或は研究した人もあるでせう、しかし何国《どこ》でも未だ弘く行はれるといふ程に行かぬ中、千八百八十七年、即ち明治十八[#「十八」に「ママ」の注記]年になりますかな、其年の末に初めて所謂《いはゆる》エスペラントが世に公《おほやけ》にせられた。之は露国ワルソウの人だから詰《つま》り波蘭人《ポーランドじん》だ、其波蘭人のドクトル、ザメンコフといふ人の発明で、かのウォラビュックなどから視ると、遙かに自然的で無理が少ないから、忽《たちまち》の中に非常な勢で諸国に弘まつた。今では世界中で亜細亜や阿弗利加を除いては到る処にエスペラント協会が出来てゐて、其教科書は各国語に飜訳されてある。私が始て浦潮斯徳《ウラジオストック》でポストニコフといふ人からエスペラント語を習つた時にも、同氏から此語が欧米で盛に研究されつゝある話を聴いたことがあつたが、当時は仔細あつて私の心は彼に在つて此《こゝ》に無しといふ有様で、好加減《いゝかげん》に聞流して置いたが、其後北京へ行つて暫らく逗留してゐると、或日|巴里《パリ》から手紙が来た、巴里に知人はないがと怪しみながら封を切つて見ると、エスペラント語で日本に於けるエスペラント流布の状況が聞きたいといふ意味の事が書いてある。署名は仏人の名だが一向知らない人だ。さてはエスペラント協会員だなと心附いたから、日本では一向まだ駄目だといふ返事を出して置いたが、戦争前帰朝すると間もなく又|墨西哥《メキシコ》の未知の人から矢張エスペラント語で絵葉書の交換を申込んで来た、成程教科書は西班牙語《スペインご》にも飜訳されてあるから墨西哥にエスペランチストのあるに不思議はないが、それでも其葉書を手にした時には、実に意外の感に打たれましたよ、といふものでエスペラントは今では思ひ掛けない処にまで弘まつてゐるから、エスペラントは確かに世界通用語になりつゝあるものと謂《い》つてよろしい。安孫子《あびこ》君の報道でみると、倫敦《ロンドン》の商業会議所ではエスペラントを書記の必須科目にしてゐるさうだ、又黒板博士の話では倫敦の或るステーションにはエスペラントのガイドが居ると云ふ、かれこれ
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