まりだワ、『ヴィクトル、アレクサンドルイチ』、今別れたらまたいつ逢われるかしれないのだから、なんとか一ト言ぐらい言ッたッてよさそうなものだ、何とか一ト言ぐらい……」
「どういえばいいというんだ?」
「どういえばいいかしらないけれど……そんなこたア百も承知しているくせに……モウ今が別れだというのに一ト言も……あんまりだからいい!」
「おかしなことをいうやつだな! どういえばいいというんだ?」
「何とか一ト言くらい……」
「エーくどい!」ト忌々しそうに言ッて、「ヴィクトル」は起ちあがッた。
「アラかに……かにしてちょうだいよ」ト「アクーリナ」は早や口に言ッた、かろうじて涙を呑みこみながら。
「腹も立たないが、お前のわからずやにも困る……どうすればいいというんだ? もともと女房にされないのは得心ずくじゃないか? 得心ずくじゃないか? そんなら何が不足だ? 何が不足だよ?」トさながら返答を催促《さいそく》するように、グッと「アクーリナ」の顔を覗きこんで、そして指の股をひろげて手をさしだした。
「何も不足……不足はないけれど」ト吃《ども》りながら、「アクーリナ」もまた震える手先をさしだして、「ただ何とか一ト言……」
 涙をはらはらと流した。
「チョッ極《きま》りを始めた」、ト「ヴィクトル」は平気で言ッた、後から眉間《みけん》へ帽子を滑らしながら。
「何も不足はないけれど」ト「アクーリナ」は両手を顔へ苑てて、啜《すす》り上げて泣きながら、ふたたび言葉を続《つ》いだ、「今でさえ家にいるのがつらくッてつらくッてならないのだから、これから先はどうなることかと思うと心細くッて心細くッてなりゃアしない……きっとむりやりにお嫁にやられて……苦労するに違いないから……」
「ならべろならべろ、たんと並べろ」ト「ヴィクトル」は足を踏み替えながら、口の裏で言ッた。
「だからたッた一ト言、一ト言何とか……『アクーリナ』おれも……お、お、おれも……」
 不意に込み上げてくる涙に、胸がつかえて、言いきれない――「アクーリナ」は草の上へうつぶしに倒れて苦しそうに泣きだした……総身をブルブル震わして頂門で高波を打たせた……こらえに堪えた溜め涙の関が一時に切れたので。「ヴィクトル」は泣くずおれた「アクーリナ」の背なかを眺めて、しばらく眺めて、フト首をすくめて、身を転じて、そして大股にゆうゆうと立ち去ッた。
 しばらくたッた……「アクーリナ」はようやく涙をとどめて、頭を擡《もた》げて、跳り上ッて、あたりを視まわして、手を拍《うっ》た、跡を追ッて駈けだそうとしたが、足が利かない――バッタリ膝をついた……モウ見るに見かねた、自分は木蔭《こかげ》を躍りでて、かけよろうとすると、「アクーリナ」はフト振りかえッて自分の姿を見るやいなや、たちまち忍び音にアッと叫びながら、ムックと跳《は》ね起きて、木の間へ駈け入ッた、かと思うとモウ姿は見えなくなった。草花のみは取り残されて、歴乱としてあたりに充《み》ちた。
 自分はたちどまった、花束を拾い上げた、そして林を去ッてのらへ出た。日は青々とした空に低く漂ッて、射す影も蒼さめて冷かになり、照るとはなくてただジミな水色のぼかしを見るように四方に充ちわたツた。日没にはまだ半時間もあろうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄ろくからびた刈科《かりかぶ》をわたッて烈しく吹きつける野分《のわき》に催されて、そりかえッた細かな落ち葉があわただしく起き上り、林に沿うた往来を横ぎって、自分の側を駈け通ッた、のらに向いて壁のようにたつ林の一面はすべてざわざわざわつき、細末の玉の屑を散らしたように、煌《かがや》きはしないが、ちらついていた、また枯れ草、莠《はぐさ》、藁《わら》の嫌いなくそこら一面にからみついた蜘蛛の巣は風に吹き靡《なび》かされて波たッていた。
 自分はたちどまった……心細くなッてきた、眼に遮《さえぎ》る物象はサッパリとはしていれど、おもしろ気もおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になッた冬のすさまじさが見透かされるように思われて。小心な※[#「鴫」の「田」に代えて「亞」]《からす》が重そうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を回らして、横目で自分をにらめて、きゅうに飛び上ッて、声をちぎるように啼《な》きわたりながら、林の向うへかくれてしまッた。鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んできたが、フト柱を建てたように舞い昇ッて、さてパッといっせいに野面に散ッた――ア、秋だ! 誰だか禿山の向うを通るとみえて、から車の音が虚空《こくう》に響きわたッた……
 自分は帰宅した、が可哀そうと思ッた「アクーリナ」の姿は久しく眼前にちらついて、忘れかねた。持帰ッた花の束ねは、からびたままで、なおいま
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング