マー ノラ! どうしたといふんだ、待つた、もう一度讀んで見よう。さうだ/\。やつぱりさうだ。俺は助かつたよ、ノラ、私は助かつたよ。
ノラ 私は?
ヘルマー 無論お前もだ、二人とも助かつた、二人とも。これご覽、あの男がお話の證文を返してきた。手紙には思ひ返した、詫をすると書いてある。これから幸福な生涯に入ると書いてある――まあ、あの男のことなんかどつちでもかまはないが、俺達は助かつたな、ノラ、これでもう誰もお前を苦しめる者は無いよ。ねえ、ノラ、だが先づ何よりもこの嫌なものをなくしてしまはう。も一度見て――(證文をちよつと見て)いや見まい/\。今までのことは、私にとつては馬鹿馬鹿しい夢のやうなものだ。(證文と二通の手紙とを裂いてずた/\にする、そして火の中に投じて燃えるのを見詰める)さあ、これでいゝ。手紙によると、クリスマスの晩から――してみると、ノラ、この三日といふもの、お前は隨分辛かつたらうな。
ノラ この三日の間、全く死物狂ひでしたのよ。
ヘルマー そして他に苦しみを逃れる道といつては無いんだから――いや、もう、あの恐ろしいことは考へまいね。俺達はたゞ愉快に祝つて、もうすんだもうすんだと繰返しておかう――これノラ、お前俺のいつてることが聞えないかえ。まだ判然と事柄が呑み込めないやうだな。さうだよ、もう何もかもすんだよ。どうしたのだ、そのむつかしい顏付は。あゝわかつた。可哀さうにお前は俺がまだ怒つてると思つてるね。俺はもう許してやつたんだよ。誓つて許したよ。一切許してやつたんだからね。お前のしたことはみんな私を愛する心から出たことだと、それは俺にはよくわかつてるよ。
ノラ それだけは本當です。
ヘルマー お前は妻として充分私を愛してくれた。たゞ手段を誤まつたのだ。けれども私は、そんな弱點のためにお前を可愛がらないやうな男ぢやないよ。そんな男ぢやないから、たゞ私に寄り縋つてさへゐればいゝ。私はお前の相談相手にも案内者にもなるよ。萬一、お前の女らしい弱點が一しほ哀れに見えないやうな俺なら、本當の男でないさ。さつきは出しぬけでびつくりしたものだから非道いこともいつたが、あんなことを氣にかけちやいけないよ。あの時は全く世界が耳元で、でんぐり返るかと思つた。私はもうお前を許したよ。ノラ、誓つて許したよ。
ノラ お許し下すつて、有難うございます(右手から出て行く)
ヘルマー あ、これ、お待ち(覗き込んで)そつちへ行つて何をするつもりだ?
ノラ (内から)人形の衣裳を脱ぎます。
ヘルマー (入口の所で)あゝ、さうおし。少し靜かにして落着くといゝさ。家の小鳥さん、じつとして休むがいゝ。俺の廣い翼の下でかばつてやるから(扉の傍をあちこち歩きながら)あゝ、實に美しい――平和な家庭だな。ノラ、かうしてゐさへすればお前は安全なものだ。鷹に追つかけられた鳩のやうなお前をかうやつて私が救つてゐてやる。今にその胸の動悸も靜めてやるよ。ノラ、今すぐ靜めてやるよ。全體どうして私はお前を追ひ出すの叱りつけるのと、そんな氣持になつたらう。ノラさんは生粹の男の胸中といふものを知るまい。男が自分の妻の過去を――率直に許した時の、その氣持といふものはいふにいへない美しい穩かなものだよ。女はその時から二重に男の持物になる。いはゞ二度生れ替つたやうなものだ。妻であると同時に子供になる。お前もこの後は私に對してさういふ關係になるよ。いゝかい、もう何も氣にかけないでお出で。たゞもうその胸を開いて、私に任せてゐれば、私がお前の意志にも良心にもなつてやる(ノラ、不斷着に着かへて入り來り、テーブルの方へ横ぎる)おや、どうしたんだ? 寢室へは行かないのか、着物を着かへて――
ノラ えゝ、あなた、やつと着物を着かへましたよ。
ヘルマー けれども、どうしてこんなに遲く?
ノラ 今夜は私、寢ないのです。
ヘルマー でもお前――
ノラ (懷中時計を見て)まだそんなに遲くはありません。ちよつと坐つて下さいな。あなた、お互にいひたいことが澤山あるから(テーブルの一方の椅子にかける)
ヘルマー ノラ、どうした譯だ、その冷たいむづかしい顏付は――
ノラ 坐つて下さい。幾らか暇が取れるでせうから、私、澤山あなたに話したい事があるのですよ。
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(ヘルマーはテーブルの向側に腰を下ろす)
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ヘルマー 出しぬけに變ぢやないか、お前のいふことはさつぱりわからない。
ノラ おわかりになります? つい今夜まで――貴方には私といふ者がわからないし、私には貴方といふ者がわからなかつたのですよ。いゝえ、待つて下さい。私のいふことを聞いて下さればよいのです。私達は愈々最後の極りをつける時になりましたわ、あなた。
ヘルマー (大して氣づかずに)それはどういふ譯だ?
ノラ (暫く默つてゐた後)あなたは、かう二人向き合つてゐて、一つ不思議な事があるとはお思ひにならないの?
ヘルマー 何だらう?
ノラ 私達が結婚してから、もう八年になりますね。それに不思議ぢやありませんか[#「ありませんか」は底本では「ありせんか」]。あなた[#「あなた」は底本では「あな」]と私が夫婦差し向ひになつて眞面目な話をしたことは、つひぞ一度もありません。
ヘルマー 眞面目な話……ふむ、どういふ話?
ノラ 丸八年、もつと經つたでせう――始めて私達が知合つてからといふもの――私達はたゞの一度も眞面目なことを眞面目な言葉で話し合つたことはありませんよ。
ヘルマー すると、お前ぢやどうすることも出來ないやうな心配事まで持ちかけてお前に苦勞させろといふのか?
ノラ 私、心配ごとをいつてるのぢやありません。私達はどんなことだつて、つひぞ底の底まで眞面目に話し合つたことがないといふのですよ。
ヘルマー でもお前、眞面目なことなんかお前の柄にないことぢやないか?
ノラ えゝ、そこなの、あなたは少しも私といふものを理解していらつしやらなかつたでせう? 私は今まで大變まちがつた取扱ひを受けてをりました。第一は父からですし、その次はあなたからですよ。
ヘルマー 何をいふ? お前のお父さんと私から間ちがつた取扱ひだと?――あれほど深くお前を愛してゐた俺たちに?
ノラ (頭を振りながら)あなたは決して私を愛していらつしやつたのではありません。愛するといふことを慰みにしてお出でなすつたのです。
ヘルマー どうしたんだらう。隨分不條理な恩知らずのいひ方ぢやないか。お前はこの家へきて幸福だとは思はないか?
ノラ いゝえ、ちつとも、そんなことは思ひません。始めはさう思つてゐましたけれど、間違ひでした。
ヘルマー 幸福でなかつたと?
ノラ えゝ、面白をかしく暮らしてきたのです。あなたにはいつも親切にして頂きましたけれど、家は子供の遊び部屋でしかなかつたのですよ。その中で私は、あなたの人形妻になりました。丁度父の家で人形子になつてゐたのと同じことです。それから子供がまた順々に私の人形になりました。そして私が子供と一緒に遊んでやれば喜ぶのと同じやうに、あなたが私と遊んで下されば、私には面白かつたに違ひありません。それが私達の結婚だつたのですよ。
ヘルマー 大げさにいひすぎたところはあるが、お前のいふことにも道理はある。しかし今日からはそれを一變させる、遊びごとの時代が過ぎて今は教育の時代が來たのだ。
ノラ 誰の教育です? 私のですか、子供のですか?
ヘルマー それはお前、兩方さ。
ノラ あなたの力では、私を教育してあなたに適する妻になさることはできません。
ヘルマー お前がそんなことをいふのか?
ノラ それはそれとして、私は子供を教育するのに相應はしいかしら?
ヘルマー ノラ! もう止せよ。
ノラ あなたご自身で、つい二三分前に、子供は私に托されないとおつしやつたぢやありませんか?
ヘルマー 激したはずみにつひいつたのだ。どうしてお前そんなことに拘はつてるのだ。
ノラ やはり私には子供は托されません――あなたのおつしやる通りです。さういふ問題は、私の力に及ばないのです。私にはそれより先に解釋しなければならぬ問題があるのですよ――私は自分を教育する工風をしなくちやなりません。それにはあなたの助けは役に立ちませんから、私獨りで始めます。私がこれ切りお別れするのは、そのためです。
ヘルマー (びつくりしてとび上り)何だと?――どういふ意味だか――
ノラ 自分自身や周圍の社會を知るために、私は全く一人になる必要があります。ですから、この上あなたと一緒にゐることは出來ないといふのです。
ヘルマー ノラ! お前!
ノラ 私はすぐ行かうと思ひます。今夜はクリスチナさんが泊めてくれませうから――
ヘルマー お前は氣が狂つた。俺はそんなことは許さん。禁じますぞ。
ノラ 今となつて何を禁じようとおつしやつても無駄です。そんなことは無用ですよ。それでは私、自分の身の廻りの物を持つて行きます。あなたからは、この後も一切お世話にならない積りでゐます。
ヘルマー 狂氣の沙汰だな。
ノラ 明日、私は生れた所へ行きます。
ヘルマー 生れた町へ!
ノラ 生れた町といつても今は何にもありませんけれど。何か生活の便宜があるかと思ひますから。
ヘルマー どうしてお前のやうな何もわからない世間知らずが――
ノラ ですからあなた、生活の經驗を積む工夫をしなくちやなりません。
ヘルマー それで家も夫も子供も振り捨てようなんて。お前は世間の思はくといふものを考へてゐない。
ノラ そんなことには構つてゐられません。私はたゞしようと思ふことは是非しなくちやならないと思つてるばかりです。
ヘルマー 言語同斷だ、お前は全體そんな風にしてお前の一番神聖な義務を棄てることが出來るのか?
ノラ 私の一番神聖な義務といふのは何でせう?
ヘルマー それを私に尋ねるのかい。夫に對し子供に對するお前の義務を。
ノラ 私には同じやうに神聖な義務が他にあります。
ヘルマー そんなものがあるものか、どんな義務といふのだ。
ノラ 私自身に對する義務ですよ。
ヘルマー 何よりか第一に、お前は妻であり母である。
ノラ そんなことはもう信じません。何よりも第一に私は人間です。丁度あなたと同じ人間です――少くともこれから、さうならうとしてゐるところです。無論、世間の人は大抵あなたに同意するでせう。書物の中にもさう書いてあるでせう。けれどもこれからもう、私は大抵の人のいふことや書物の中にあることで滿足してはゐられません。自分で何でも考へ究めて明らかにしておかなくちやなりません。
ヘルマー お前は家庭における自分の地位といふものを知つてないのか? お前だつて何等かの道徳心は持つてゐようから、それとも何かえ、お前には良心さへもないのだらうか?
ノラ さうですね、それはむずかしいことでせう。私にはよくわかりません――そんなことには全く見當がつかないのです。ただ私、あなたのお考へなさるのと全く違つて考へてゐるといふだけは申されます。それからまた、法律だつて私の思つてたこととはまるで違ふといふぢやありませんか。そんな法律は私、正しいとは信じられません。娘が死にかゝつてゐる父をいたはる權利も夫の命を救ふ權利もないといふのですから信じられませんね。
ヘルマー お前のいふことは子供のやうだ。お前は自分の住んでゐる社會を理解しない。
ノラ えゝ、わかつてゐません。これから一生懸命わからうと思ひます。社會と私と――どちらが正しいか決めなくてはなりませんから。
ヘルマー ノラ! お前は病氣になつたのだ。熱病に罹つたのだ。殆んど本心を失つてゐはしないかと思はれるよ。
ノラ 今までに今夜ほど氣分のはつきりしてゐることはありません。
ヘルマー それほどはつきりした考へで、夫や子供を棄てるといふのかい?
ノラ さうです。
ヘルマー ではもう、説明の途は、たゞ一つしか殘つてゐない。
ノラ それはどういふのですか?
ヘルマー お前はもう俺を愛しない。
ノラ 愛しません、それが大事な點です。
ヘルマー ノラ!
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