のうちにその金を拵へる手段《てだて》がおありですか?
ノラ それも直ぐといつて間に合ひさうなのはありませんけれど。
クログスタット また、それがおありなさるとしても、今となつちや役に立ちますまい。すつかり金を積んで返さうとおつしやつても證文は貴女の手には返しません。
ノラ それを取つておいて何になさらうといふのです?
クログスタット たゞ保存しておきたいのです。私の所有物としてね。世間の人には何も知らせやしません。さうして萬一あなたが無法な考へなんかお起しなさるやうなら――
ノラ 起したらどうします?
クログスタット 例へば夫や子供を捨てゝしまつて、といふやうなことを考へるとか――
ノラ もし捨てゝしまつたらどうなります?
クログスタット または――何かもつと亂暴なことをお考へなすつた場合に――
ノラ どうして貴方は、それを知つてゐます?
クログスタット そんなことは殘らず頭の中から打つちやつておしまひなさい。
ノラ どうして貴方は、私の心で思つてることをご存じですか?
クログスタット 誰でも始めは、さういふことを考へるものです。私もそれを考へました、けれども私には勇氣がなかつた。
ノラ 私にも、それがない。
クログスタット その上――始めの嵐がすぎてしまふと――そんなことは至つて馬鹿らしいものです。私こゝにご主人に當てた手紙をポケットに入れて來てゐます。
ノラ すつかり打ち明けようと言ふのですか?
クログスタット あなたは出來るだけかばつてあります。
ノラ (早口に)どんなことがあつても、その手紙をあの人に渡して下すつちやいけない。やぶいて下さい。私どうにかしてお金は拵へますから。
クログスタット 相すみませんな、奧さん、しかし私はさう申し上げたと思ひますが。
ノラ いゝえ、何も借りてゐるお金のことをいつてるのぢやありません。一體あなたは主人からどの位お金を取らうと思つていらつしやるのですか――私がそれを差上げませう。
クログスタット 私はご主人からお金を貰はうとは思つてゐません。
ノラ 何がそれじや欲しいのです?
クログスタット では申しませう。私は世間に出る足場が取り返したいのです。身を立てなくちやなりません。それでご主人に助けて貰はうといふのです。この十八ヶ月間私の履歴には一點の汚れもありません。その間私は始終ひどい貧乏をしてゐました。けれども、もがきながら一歩一歩地位を作つて行かうといふ一心で滿足してをりました。ところをかうやつて突き落されてしまつた。ですから、もう一度元の地位に這ひ戻らしてさへ貰へばよいといふ譯には、今ぢや參りません。出世させて貰はなくちやならん。ようございますか、今一度銀行へ入れて貰つて、元よりも高い地位に据ゑて貰はなくちやなりません。ご主人は私のために地位を工夫して下さらなくちやならん。
ノラ 主人が、そんなことをするものですか。
クログスタット いや、なさるでせう、私はご主人の人物を存じてをります――よもや拒みはなさるまいと思ひます。そして私が銀行に入れば、見ていらつしやい、直に支配人の右の腕にはなつてみせます。トル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルト・ヘルマーでなくニルス・クログスタットが株式銀行は切り廻してご覽に入れます。
ノラ おやまあ、そんなことができるものですか。
クログスタット では何でせうな、あなた――?
ノラ もう止して下さい。今こそ私勇氣が出ましたよ。
クログスタット 私を嚇かしちやいけませんよ。貴女のやうな華車な荒い風にも當らないものがどうして――
ノラ まあ、見ていらつしやい!
クログスタット おそらく氷の下に閉じ込められて? あの冷たい黒い水の底に沈んで? 翌年の春になつて浮き上つて來ると、醜い嫌な姿に代つてゐて髮の毛も無くなつて、誰だか見わけもつかないやうになつて――
ノラ 私を怖がらせようと思つたつて駄目ですよ。
クログスタット 貴女も私を怖がらせようたつて駄目です。さういふことはできるものぢやありません、奧さん。また、やつたところで何の役にも立ちません。どんなことにならうとも、こちらのご主人はもう、私のポケットの中へ入れてるも同然です。
ノラ 後々までも? 私がゐなくなつてからも――?
クログスタット 貴女の名譽は私の手に握つてる事を忘れましたね(ノラ無言で立ち上り、クログスタットを見る)よろしい。覺悟がついたと見えますね。馬鹿なことをなさるなよ。ヘルマー君は、私の手紙を受取つたら、すぐに返事を下さるでせう。よく覺えてゐて下さい。私がまた、こんなことをしなくちやならないのもご主人のお蔭ですよ。どうあつてもそのまゝにはすまされませんからな。さようなら、奧さん(握手、廊下から出て行く。ノラは扉の方へ急ぎ足に行つて細目に開けて聞耳を立てる)
ノラ あいつ、行つてし
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