口のところでヘルマーと爭ひながら)いや、いや、いや! 私入りませんよ! も一度二階へ行きたいんですから。こんなに早く歸るのは嫌ですよ。
ヘルマー だつてお前!
ノラ ね、どうかね、あなた。もうたつた一時間でいゝから!
ヘルマー もう一分でもいけない。約束したことを覺えてるだらう! さ、さ、入つたり! こゝにかうしてゐては風邪をひくよ。
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(男は女の抵抗するにも拘はらず、なだめるやうにして部屋の中に連れてくる)
[#ここで字下げ終わり]
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リンデン 今晩は。
ノラ クリスチナさん!
ヘルマー おゝ、リンデンの奧さん! あなた、こんなに晩く、こゝにいらつしやつたのですか?
リンデン はい、ご免下さいませ、私ノラさんの衣裳をつけていらつしやるのが、是非拜見したかつたものですから。
ノラ あなたは、こゝに坐つたまゝ私を待つてたの?
リンデン えゝ、あいにくと私、遲くきてしまつたのですよ。あなた方はもう二階に行つていらつしやるし、お目にかゝらないで歸るも殘念でしたから。
ヘルマー (ノラのショールを脱がせながら)ぢや、まあ見てやつて下さい。充分見る價値があると思ひますよ。綺麗ぢやありませんか、奧さん?
リンデン えゝ、本當に――
ヘルマー 美しいぢやありませんか。皆がさういつてゐました。たゞこの女が恐ろしく剛情で困りましたよ、此奴めが。どうしてやりませうかな? 殆んど腕力で引つ張つて來たんですよ。
ノラ 今に見ていらつしやい。後悔なさる時がくるから。もうたつた半時間でもいいものを殘らせて下さらないんだもの。
ヘルマー それ! お聞きなすつたでせう、奧さん? あの通りです。しかしタランテラを踊つた時には皆が狂氣のやうに拍手しましたよ。そしてまた充分それだけの値打はあつたといつていいでせう――たゞ、その思想を現はす場合にですな、少うし實感が出すぎた嫌ひはあるかも知れませんが――つまりやかましくいひますと藝術的といふよりも少し行きすぎてゐたのですね。けれどもそんなことはどうでもいゝ――とにかく大成功でした。そして、それが大切な目的なんですからな。で、その後ときてゐますから、いゝところで切り上げないと拙いでせう?――折角の印象を弱めることになりますからね、さうと氣がついた以上、そんなことはさせられません。で、私はこの小さい可愛らしいカプリの娘を脇の下に抱へて大急ぎで部屋を一巡りしましてね、一同に挨拶して、そして――よく小説に書く奴ですが――その美しき幻は消えにけり、でした――引つ込みといふものは、いつもぱつとしなくちやいけませんからね、奧さん。所がノラにはどうしてもその譯がわかりません。いやあ! ここは暑いな!(ドミノの上衣を椅子の上に投げかけて、自分の室への扉を開く)おや、こちらには灯火がついてゐないな? うむ、そのはずか! ご免下さいよ――(入つて蝋燭に灯をつける)
ノラ (息の聞えないやうにつぶやく)どうしました?
リンデン (柔かに)あの人に話しましたよ。
ノラ そして?
リンデン ですけれどね、ノラさん――あなたは、すつかりご主人に打開けてお仕舞ひなさらなくちやいけませんよ――
ノラ (殆んど聲に出さないで)そんなことだらうと思ひました!
リンデン クログスタットの方は少しも怖がる必要はありません。けれども、とにかくすつかりいつてお仕舞ひなさる方がいゝのですよ。
ノラ いゝえ、いひますまい。
リンデン だつて手紙がいつてしまひますよ。
ノラ クリスチナさん、どうも色々ご心配下すつたわね、それでもう、私のすることはわかりました、叱ッ!
ヘルマー (歸つてくる)そこで奧さん、見てやつて下さいましたか?
リンデン えゝ、ぢや私はもうお暇申しませう。
ヘルマー え? もうですか? この編物はあなたのですか?
リンデン (それを取る)えゝ、どうも有難う、私、餘程忘れるところでしたよ。
ヘルマー ぢや、あなたは編物をなさるのですね。
リンデン えゝ。
ヘルマー それよりか刺繍《ぬひとり》をなさる方がいゝでせう。
リンデン さうですか? どうしてゞせう?
ヘルマー なぜといつて、その方がずつと綺麗です。ご覽なさい、刺繍の時には左の手にそれを持つて、さう、そして右の手を長いなだらかな曲線にして針を動かす、さうぢやありませんか?
リンデン えゝさう。
ヘルマー けれども編物となると、どうも見|惡《にく》い。ま、ご覽なさい――兩腕を脇腹にくつつけて、そして針が上にいつたり下にいつたり――その樣子が何だか支那人のやうですね――時に今夜のシャンペンは實際素的だつたな。
リンデン ぢや、お休み遊ばせ。ノラさん、もう剛情を張つちやいけませんよ。
ヘルマー よくいつて下すつた、奧さん――
リンデン
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