ヘルマー さうさな――
ノラ その書類は何のご用?
ヘルマー 銀行の用事だ。
ノラ もう?
ヘルマー 今度辭職する支配人と相談して少し役員の出し入れなんかさせて貰つたもんだからね。その方がクリスマス中かかるだらう。新年になるとすつかり片がつきさうだ。
ノラ ぢや、そのためですわ、可哀さうに、あのクログスタットが――
ヘルマー ふむ――
ノラ (尚、椅子の背の處によりかゝり、靜かに夫の髮の毛を掻きながら)貴方、餘り忙しくなかつたら本當にお願ひしたいことがあるんですけれどね。
ヘルマー 何だらう? いつてご覽。
ノラ 誰だつて、貴方ほど趣味の高い人はゐないんだから、私今度の假裝舞踏會には思ふ樣立派にして行きたいと思ふんですよ。で、貴方何ですか? 一緒にいらして私が何になればいゝか決めて衣裳を見立てゝ下さるわけにはいきませんか?
ヘルマー あはあ! 家の剛情屋さんが、途方にくれて悄《しよ》げ始めて來たね。
ノラ えゝ、どうかね。貴方がいらして下さらなくちやどうにもならないんですもの。
ヘルマー よし/\、考へてみよう、そのうち何か見《め》つかるさ。
ノラ まあよかつた。貴方親切ですわね! (またクリスマス・ツリーの方へ行く、立ち止る)赤い花がいいこと! ですけれどね、あなた、あのクログスタットが惡いことをしたといふのは、大變怖ろしいことなのでしたか?
ヘルマー 私文書僞造といふだけだがね、それはどんなことか知つてるかい?
ノラ 何か止むを得ない事情で、そんなことをしたんでせうね?
ヘルマー さうか、またはよくある奴でほんの不注意からそんなことになつたのかも知れない。俺は何も、それ一つの過失《あやまち》で絶對に人に難癖をつけるほど、冷酷ぢやないんだがね。
ノラ でせう? 私だつてさう思ひますわ。
ヘルマー たゞ自分の罪を白状して、それだけの刑罰を受けちまへば、それですつかり道徳上正しい人間になることが出來るんだが。
ノラ 刑罰ですつて?
ヘルマー 所がクログスタットは白状といふことをしなかつた。彼奴は小細工やごまかしで逃れようとした。それが彼奴を腐敗させてしまつたんだ。
ノラ あなた、それでは――?
ヘルマー ま、考へてもご覽! 一度惡いことを承知でさういふことをした奴は、一生涯嘘をついて眞面目な顏をしてゐなくちやならない。何もかもごまかして生きて行く。彼奴は自分の妻子にま
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