のは、やっぱり陳《ふる》い陳い普通道徳にほかならない。自分の過去現在の行為を振りかえって見ると、一歩もその外に出てはいない。それでもって、決して普通道徳が最好最上のものだとは信じ得ない。ある部分は道理だとも思うが、ある部分は明らかに他人の死殻の中へ活きた人の血を盛ろうとする不法の所為だと思う。道理だと思う部分も、結局は半面の道理たるに過ぎないから、矛盾した他の半面も同じように真理だと思う。こういう次第で心内には一も確固不動の根柢が生じない。不平もある、反抗もある、冷笑もある、疑惑もある、絶望もある。それでなお思いきってこれを蹂躙《じゅうりん》する勇気はない。つまりぐずぐずとして一種の因襲力に引きずられて行く。これを考えると、自分らの実行生活が有している最後の筌蹄《せんてい》は、ただ一語、「諦め」ということに過ぎない。その諦めもほんの上《うわ》っ面《つら》のもので、衷心に存する不平や疑惑を拭《ぬぐ》い去る力のあるものではない。しかたがないからという諦めである。
三
ここまで回顧して来て、いつも思い悩むのはその奥である。何が自分をして諦《あきら》めさせるのだろう。私に取って
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