うと思って、冬子と相談してあすこをお部屋に定《き》めて置きましたが、塩梅《あんばい》はどうでしょうか」
「ええ、結構でございます」
「あすこを息子さんの勉強室にしといて、仕事は前二階でも奥二階でも住みいいところで仕事して下されば――息子さんはおいくつで?」
「今年十五になったばかりで」
「それはまあ。わたしなんぞはこうした稼業の罰で未《いま》だに子無しでございますが。ほう、女の手一つで十五まで育てあげるのはどうしてなか/\並大抵な苦労じゃないのですわね。ほう、そしてお連合いはいつ頃亡くなりなすったので」
「もう十一、二年にもなりますでしょうか」
「えらい!」と女将はお世辞でなく驚嘆して、心からしげ/\と自分とはまるで異なった道を生きて来たお光を凝視した。穏やかな淋しげな微笑が唇のあたりに漂っているのを見た女将は、香ばしい薫の高い玉茶を入れてお光にもすすめ自分も喫《の》みもした。
「これからまた、話し相手になっていただけますかしら」
「わたしこそ」
隣りの社の杉林の緑蔭が日に透されてうつらうつら三人の女性の上に揺らいでいた。珍しい静けさ、珍しい美しさであった。暫く静寂な美はつづいていた。個性をもつものの美と森厳を自然はここに現わしていた。暫くして軒先に俥《くるま》の鈴がなった。[#「なった。」は底本では「なった」]
「女将さん、只今」
「只今」
菊龍と富江が帰って来たのである。二人とも美しい女でもなく、すぐれた性格の持主でもなかった。ただ二人とも若かった。自然が与えるほんの一瞬の青春の尊さ。それは何時いかなる処においても光り、充ち、美しさに輝く。二人の女に若さは咲き乱れていた。自分がどういう歩みをよろめいているかを無論二人は知るまい。若さは苦しみであるべき行為をもなお快楽として酔わしめるものだ。
「随分遅かったじゃないの」
「そんなに遅いかしら」乱れた島田髷をそっと抑えて、自分の若々しさを誇るように菊龍は、薄桃色の単衣紋付を裾長に引きずりながらそこに立っていた。同じ華やかな草色に装った富江は、小声に口三味線をとなえて、菊龍と内密に笑み交わしていた。
「もう二時近いよ。早く着物を着替えてお湯へでもいっておいで」
二人はそれには返事をしないで、帛紗《ふくさ》に包んだ花札を女将の前にさし出した。
「誰だったい」
「吉っちゃんに丹羽さんでしたの」
「そうかい。あんまりお前達も深入りしたり、させたりしては取り返しがつかないよ」
「大丈夫ですわ、女将さん」
「それならいいけれどね――あ、それからこの方に今度、お仕事に来て頂いたのだから、お前達、暇なときにはお針の持ち方くらいは習うようにしなさいよ、ね」
「はい、はい、小母さん御免なさいよ」
二人は店へ去った。
「若いものは仕方がありません」と女将は言った。冬子はいつか厳粛な犯しがたい凛とした容貌に変じてしまっていた。お光は何故か平一郎のことを考えていた。「今日はゆっくり休んでくれ」という意味の女将の言葉に、お光は土蔵の裏へ去った。冬子は風呂へ出かけた。
女将は奥の室へ去って楼主と二人で花|骨牌《カルタ》をはじめた。
「そうはゆきませんよ、青丹などとはどん欲すぎますよ」
「それもそうですかね、さあ、お正月様はこっちのものですよ」
「お生憎さま、そうそういつ迄もあなたの言うとおりにはなっていませんからね」
「や、それを取られては少し困る」
「少し位困るのじゃまだ駄目ですね、さ、どうですかね、あんまり薄情をするから罰があたるのですよ」
「罰はお前の方ですよ、この好色婆さんが」
「何んだよ、浮気なお爺さんが」
「その、そのお婆さんがお好きだから、それ、好きだからしょうがないんだよ」
「うまく、うまく言っているね、こんな爺さんに若いときはわたしが惚れたのが一生のあやまりだね、全く、あやまりだね」
「あやまりさね」
「あやまりだね」
「ところがだ、そのあやまりが、またいいのだからね」
「あやまりだね、と」
「ところが、そうれそのあやまりが生きてくるから妙だよ」
「その頃はまだ頭も禿げずいい若い衆だったから妙なのさ――おや、わたしを迷わして置いてさ、何だよ、存分に迷わして置いてさ」
こうした言葉が奥座敷から聞えた。楼主も女将も自分が何を言っているのか全然無意識状態にあった。たるんだ静けさが家いっぱいに充ちていた。店の間では鶴子が仰向けになって寝入り、小妻は時々ううむ、ううむと唸った。その上に黄色い日光が漂っていた。一列に店先に並んだ端の方の二台の鏡台に向って鬢のもつれを撫でつけながら、若い菊龍と富江は止度《とめど》なく湧いてくる笑いに全身を波立たせて共通な何かを話しあっていた。
「覚えていらっしゃい、菊ちゃん、あたしが手水《ちょうず》に行って着物を着替えてもまだ次の室で寝ていたくせに、ひとのことを言えるわけじゃないわ」
「あっははははは、うそ/\、あたしと吉っちゃんがそっと襖の間からのぞいて見たら、二人ながら目をあけたまま一緒に寝ていたじゃないの。富ちゃんこそ着物を着替えてからでさえまた寝ているんだもの、あははははは」
「あたしと吉っちゃんですとさ、あははははは、吉っちゃんはいい男ね、菊ちゃんの大切の大切の――」
「富ちゃん、お止しなさいよ。丹羽さんこそ苦《にが》みばしって、会社員で御当世じゃないの。吉っちゃんなんかたかが西洋雑貨店の番頭さんですわ」
「そうでしょうよ、たかが雑貨店の番頭さんが、黄金の指環を買ってくれるのですから、大した番頭さんですよ」
「富ちゃん! そんなら、縮絞《ちぢみしぼり》の単衣を買ってくれたのは誰あれ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「あら、まあこの人はそんなことまで知っているの。まあこの人は本当に油断もすきもありゃしないのね」
二人は笑いこけた。七月近かった。熱気が地より湧きたち、人身の底からじく/\汗がにじみ出た。
「菊ちゃん富ちゃん、お楽しみ! よく今日帰って来たのね。あたしもう帰って来ないのかと思っていたわ」
川岸沿いの大きな鉄冷鉱泉にゆっくりと肉体を温めて、襟頸から頬にかけて湯上りの白粉を一刷毛真白く塗って、一日中で一番|生心地《いきここち》のある感じを保ちながら時子とお幸は帰って来た。菊龍と富江を見出して声をかけたのは時子だった。彼女は感じたことをことごとく言い現わしてしまわなければ承知できなかった。お幸もずるそうな微笑を含んで二人を見|戍《まも》っていた。
「随分家の中は暑いのね」
時子はお幸の言葉に返事をしないで濡手拭を鏡台の鏡の上から裏へ拡げて富江に隣りあって坐った。そして石膏のように白い膚を脱いで暫く鏡面にうつる自分の映像に見とれていた。肉付は豊かだし、顔はほんのり血色がよいし、身体全体が石膏のように白く、ただそこに町方の娘に見出されるゆるやかに流れる鮮かな血潮の色あいと皮膚ににじみ出る青春の光沢がなかった。時子はそっと自分の小さい堅いぽっとふくらんだ乳を抑えてみた。乳房の表に繊細な静脈が青く透きとおって見える。指先に感じられる乳の感触は冷たかった。胸廓から腹部にかけての少しばかりの肉の緊張が彼女に若いことを保証していた。
「丹羽さんと吉っちゃんなの?」時子は鏡面から眼眸《まなざし》をはずして彼女には不似合な、そっとした優しみで二人を流し見た。十八の富江と菊龍は乱れた髪やはれぼったい眼縁などでひどく不縹緻《ぶきりょう》に見えたにもかかわらず、その脈うちはちきれるような頬の赤らみと張りかたや、後髪へ伸ばした腕のむっちりした肉付がもつ新鮮な血のめぐり方やを時子は見逃さなかった。彼女は嫉ましく思った。二人が持つ、持ち得る快楽の量を無意識に計量することによって、彼女は嫉妬を憶えたのだ。二人は時子の内面にそれだけの争闘があろうとは知らなかった。顔見合わして内密な微笑をとりかわしたあとで、
「丹羽さんと吉っちゃんでしたわ」と言った。お幸はいつものように単衣を脱ぎすてて、さわやかな軽い緋色の下帯一つになって鏡台にむかっていた。小さなくり/\した肉体、小さいながらに充実したお幸の肉体は、骨格というものがまるで表われていなかった。薄紅い血色が滑らかな豊かな肉付の表面に、美しく漂い現われている。円《まど》らかにふくらみ充ちた肉の上に日が美しく流れた。その肉は若い生命が溢れている美しさではなく、衰亡してゆく最後の肉の美しさでもなかった。お幸の蛇のような聡明が神経の端々にしみわたってしっかり喰いとめているような、一分の隙もないしっかりした弾力性のある、肉の発育した美しさであった。お幸はふっくらと円らかにもれあがった自分の乳房をじっと制えているうちに、自足と自負の感情が滾々《こんこん》と湧いて来た。
「本当にあすこの湯は温まるのね」お幸は時子に言った。
「そうですわね」時子はクリームを伸ばしたあとへ、水白粉を顔へなすりこんでいた手を止めてお幸の方を向いた。
「お幸姐さん」と富江が話しかける。
「何ですの、富ちゃん」
「あのね、丹羽さんと吉っちゃんがよろしくって」
「おのろけもいい加減になさいな――早くお湯へ行って来て、晩までに昼寝でもしておかないとまた居眠りが出ますよ」
「はい、はい」
富江は思いがけないお幸の言葉に急に小さくなってしまった。男の傍にいて甘やかされていた心と肉のほどけたしまりがお幸の一言に常態に復帰したのだ。彼女はそっとお幸を見返した。お幸は小《ち》っちゃいしなやかな掌へ白粉下をぬらしつつ、顔一面にたたきこんでいた。右手の指の指環の宝石が輝く。(姐さん風を吹かして)と想いながらも、お幸の肉体を美しいと思った。ああした小さい肉体でありながら舞台に立って勢獅子《せおいじし》でも踊りぬくときは六尺豊かな男のように見えさせる、お幸の身体に秘めた芸の力をも想ってみた。
「菊ちゃん、お湯へ行かない?」
「ええ、ゆきましょう」
「お湯へいって来ます」
「いっておいで」
二人は出て行った。二人の出て行ったあとへ茂子が暗鬱な顔をして、黙然と這入って来た。彼女は湯の中に温まっていると、凝結して硬ばった全身の神経が異常な溶けるような痛みを覚えつつゆるんでゆくのを知っていた。彼女は他の芸妓達のように化粧したり膚《はだ》を磨いたりする気にはなれなかった。浴槽から上がって、湯気に包まれて心臓の鼓動を休ませている。少し寒気がすると浴槽に這入って眼をつむっている。そうしたことを繰り返しているうちに頭脳も身体も無気力な無為なゆるみに休息してしまう。茂子はぼんやりした様子でいつも家へ帰って来て、鏡に向っても化粧一つしようとしなかった。色黒な眼尻のやや釣上った容貌を自覚している彼女は、白粉を塗るよりもさっぱりした薄化粧の方が本来の性にかなっていると考えていた。茂子の鏡台はお幸と時子の鏡台の間にあった。時子とお幸は茂子を中に坐らせておいたまま勝手に話し合った。茂子は何もせずぼんやり坐ったまま黙っていた。
「米子と市子ちゃんはどうしたのかしら」
「踊りの稽古じゃないの」
「踊りの稽古にしちゃ長すぎますね。ほんとにしょうがない。また道草をくってぐず/\しているんだよ」
時子がこう呟いて新しいタオルで肌の水気を柔かく吸い取らせている時、店前の街路で市子の厚味のある声が聞えた。
「ここですのよ、平一郎さん」すると米子の金属性な高い調子が顫えた。
「小母さんは朝から冬子姐さんと一緒に来ていらしってよ」
「ありがとう」それは平一郎であった。彼は学校が退けてから、忘却してもとの住居に帰って階下の主婦さんに笑われたのだ。彼は春風楼はよく知っていたが廓の街を一々知らなかった。それに彼はよく通りつけている坂を下りずに、別な入口の青柳の生えている広小路から這入りこんだので、途中で見当がつかなくなった。それ程にどの家も同じように紅殻格子の二階建だった。彼は小倉の白地の夏服にゲートルをつけた制服姿で、街の十字街に、疲れた足を休めていたのだ。すると右手の細い小路から、桃割に、白の奉書の根付をした、見覚えのある少女市子と米子が踊りの扇を持って出て来て、彼を見て微笑んで二人で何か囁いて行き過ぎよ
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