光」でなかった。お光とはまるで違った立派な女――背丈ののんびりした豊かな黒髪、やや脂肪のかったつや/\した皮膚と肉付のしっかりした男のような身体、切れ目の白刃のように凄艶な瞳、透き徹った鼻筋、品の好いふくらんだ鼻付、肥えた下唇、緩やかに垂れた顎と頬、血液の美しく透る耳朶――立派な女だ。偉大な天野夫人として恥かしくない充実した威厳と偉大性に輝いている。冬子のもつ美しさにはどこか陰性な淋しさがつき纏っているが、これは何という盛大な相であろう。平一郎は自分の母のお光の瘠せた有様を回想して、かりにも「母だ」と思えた自分の幻像を不快にさえ思った。しかし、驚いたのは平一郎のみではなかったのだ。ああ、同じく黙りこんで目をみはった綾子の深い魂の動乱を誰が知り得よう。生涯のいかなる時も忘れたことのない愛した男の「生き写し」を思いがけない平一郎に見出そうとは! 中庭の泉水に緋鯉の跳ねる音がぴっしゃり聞えた。「お前さんですかえ、平一郎さんは」
「はい、大河平一郎と申します。はじめて、お目にかかります」平一郎は答えながら何故か虚偽を自分は言っているのではないかという障礙《しょうがい》を内部に感じた。(何度もお会いしたような気がします)ああ、久し振りだったと、生を超ゆる幽かな遠い心内から言うものがあった。
「大河……」と綾子は小さく呟いて、平一郎を抱きすくめるように凝視した。白刃のような切れ目の長い瞳が円く大きく輝いて平一郎に迫って来る。複雑な思想が瞳の奥で奔湍《ほんたん》のように煌《きら》めき、やがて一束の冷徹な流れとなって平一郎を瞶《みつ》めるのである。
「母御お一人だというんでしたね」彼女は奥山に口先だけでたずねて平一郎を見つめていた。
「そうです、母一人子一人でこれまで生活して来ていたのですが、どうにも十分な教育が出来かねるというので、わたしが知り合いなものですから、こちらの御主人にお願いしたようなわけですので――」
(嘘を言っているな)と平一郎は浅ましい気がしてうつむいた。
綾子はよくも聞かないで今度は平一郎に尋ねた。
「母さんはどんな方? なんという方?」
「母は光と申します――」と彼が言ったときの綾子の異常な感動は平一郎に生涯忘れることは出来まい。外部へ発すべき驚きが内部へ侵入して、複雑な彼女の内面生活へ脈々と波動して行く有様だ。夫人は灼きつくような瞳に非凡な彼女の全力を集中して平一郎を身動きもさせなかった。そして無言は彼に次を語ることを促した。彼は「母は今年四十で――」と言いかけたとき電光のように母の訓戒が閃いた。一大事であった。「母は金沢の生まれでございます。父は小さい時に死に別れたので何一つ記憶していませんがKという港の生まれだそうで、何んでも母の養子であったそうでございます」彼も一生懸命だった。宣言するように彼は強く述べずにいられなかった。彼自身自分の言うことが実在性をもつ真実のように考えられる程一心だった。綾子は疑うように瞳を動かしたが、崖の上から深淵を覗きこむ人のように瞳を落として「そう」と言った。そして、彼女は再び平一郎を見ることを恐れるように、「粂や」と女中を呼んだ。十六、七の円顔で人形のように色白で愛らしい粂は白いエプロンで手をもみながら廊下に跪いた。
「この間言って置いた玄関のわきの四畳半はよくなっているかえ」
「はい、すっかりもう出来ております」
「じゃ、大河を案内しておくれ」と綾子は辛そうに言った。
玄関の傍の畳の新しい四畳半には、窓先には机が具えられ、壁際には書棚、欄間の端には帽子掛までが用意され、部屋の片隅には、彼が停車場から直送した柳行李が縄も解かずに置かれてあった。窓先の空地に植えられた山茶花と南天の樹が日に透されて揺らいでいた。粂は自身机の前に坐ってみせて、「大河さん、もうあなたさえいらっしゃればいいようにして待っていたのですよ」と言って微笑した。粂は右手の障子を開けた。縁側を越えて、奥庭の広い芝生にあたる日光の流れや、常盤樹《ときわぎ》の茂みに薄赤く咲き乱れる桜や、小鳥の囀りが聞える。何というおだやかな静かさであろう。彼は机の前に坐って、充ちわたる静寂にひたった。外界の静寂に似ず彼は自分の内面に不思議にひろがる「あやしげな」感じを抱きしめていた。
「随分いい部屋ですわ。ほんとに大河さんは幸福ですのよ。こちらのようなお邸から学校へ通わして戴けるなんて。それに本当にこちらのお邸のようにいいお邸はないことよ。奥様は立派な思いやりの深い方ですし、旦那様だってそれはいい方ですのよ。ただ若様は少しお身体が弱くって学校なんかも怠けていらっしゃるけれど、…………」粂は快活に下松町のお玉がそうであったように時々大げさな色眼を使って話したてた。平一郎はその色眼を快く思わぬでもなかったが、何故か頼りない寂しさが全身を揺り動かして来るのをどうにも出来なかった。(母を去って来たからだ。明日食う米がなくても母の傍にさえいれば感じなくともすむ淋しさだ。)それに何とも知れぬ天野夫人への執着が湧いて来た。彼はそうした複雑な感情で窓先の山茶花の葉を眺めていた。粂は彼の耳許で、彼は毎朝起きてから自分の部屋と廊下と前庭の掃除をすること、ときどき風呂の焚きつけをしなくてはならないこと、学校から帰ったあとはもう来訪者があればその取次をしなくてはいけないと話した。やがて邸中の女中が七人、一人ずつ初対面の挨拶をして行った。奥山が一々まことらしく、「よろしくたのむ」を繰り返したのである。
「何という己は意気地なしの馬鹿だろう! いけない!」彼は一人になったとき襲ってくる悪霊を払いのけるように手を振り廻して、柳行李の紐を解いて硯やペンを取り出した。そして、母と深井と尾沢へ東京へ来てはじめての簡単な通信を書きはじめた。(ああ和歌子へ知らしたい。彼女はとにかくこの東京にいるのだろうに!)
八時過ぎに天野は自動車で帰って来た。平一郎は女中達と一緒に彼を出迎えたが、彼は見向きもせずに奥へ入ってしまった。彼はその「冷淡さ」の裏に下松町があり、「妾の冬子」があることを考えて暗鬱な気がした。(いけない。どうもいけない。どうもこう虚偽が堅められていてはいけない!)と彼はとっさに思った。三十分経ってから女中が平一郎を「旦那様がお呼び」だと言った。天野はこの邸でも、かつて金沢の古龍亭であったように下松町の別邸においてあったように、茶の間の中央に毛布をかけてゆったり寝そべっていた。綾子は火鉢にもたれて黙していた。
「お前、話をしたのかい」
「ええ、ひる頃奥山が見えて紹介して行きました」
「学校のことは?」
「それはまだ」
「ふうむ」天野が平一郎を見て「学校は何年だったっけな」と聞いた。
「四年を終了して居ります」
「それじゃM学院がここから近くていいから、明日でもお前行ってくるがいい」そして彼は「田中に手紙を書こう」と言った。足をもんでいた粂は奥座敷から硯箱と巻紙を持って来た。天野は筆をなすりつけるようにして書き終えて封書を平一郎の前に置いた。
「明日これをもってお前自身M学院へ行ってくるといい。田中というのはわたしが以前から知っている人だから」
「はい」と平一郎は瞳を上げると、自分を火のように熱心に見つめている綾子の瞳を感じてはっ[#「はっ」に傍点]とした。すると天野がじろり[#「じろり」に傍点]恐ろしいほどに睨みつけていた。「偉大な男と女」そう言ってよい天野と綾子が自分を力一杯に見つめていることは恐ろしかった。しかし、明日から新しい自由な学校へ行って勉強できることを思えば「少年の平一郎」は生き生きした歓喜と希望が湧いて来た。その浄い生き生きした感情は彼の奥深くに鬱屈しそうになる「わけの分らぬ暗鬱と恐ろしさ」に克つ力があった。彼は悦びに溢れて元気になった。
「ほんとに大河さんは羨ましいこと、わたしも男だったらお願いして学校へ上げて戴くんですけれど、ねえ、奥さま」粂は言って、「さっきもわたし大河さんは幸福《しあわせ》だわって言っていたのですのよ」
「お前だって女学校へ行ったらどうだい。靴を穿《は》いてさ」
「まあ、奥さま、わたし男だったら学校へ行きたいのですわ。女学生なんかもう死んでも大嫌い!」粂のいかにも嫌いらしい口ぶりにみんなは笑った。平一郎も笑った。そして笑いながら、綾子の電光のように強い速やかな視線を平一郎に投げるのは感じられた。天野のゆったりと充実した力を湛えた静かさは笑いながらも放れなかった。彼は女中達を軽いユーモアで笑わした。綾子も同じであった。粂が「本当にこんないいお邸はどこへいってもない」と言ったように、家庭の二人は女中達には寛厚で、しかも未発の偉大な力を源泉に蓄えている立派な「主人」であるらしかった。しかし、平一郎は、同時に彼等は女中達に絶対的な服従を要求しささげさしていることも認識せずにはいられなかった。その認識は平一郎には未明の反感を生ぜしめた。そればかりでなく、平一郎の純な認識に、天野と綾子が女中達へユーモアをもたらす余裕のあるだけ、二人の人格が渾然と一つにならずに、睨みあい対立しあっていることも明かに感じられた。――そして、彼自身の内には天野へのある意地が早くも伸びかけて来ているし、綾子の熱心な視線をも全身に感じられる。彼は二人の前にいることが苦痛になった。彼は「それじゃ明日は僕一人で行ってまいります」と言って天野の親書を懐にして自分の部屋へ去ろうとした。そのとき、障子をあけて覗きこんだ者があった。新しい大島絣《おおしまがすり》の袷をきた背の高い、そう瘠せてはいないが全体が凋《しな》びたように黒ずんで、落着かない眼付をした人相の悪い青年が懐手をして覗きこんでいる。
「あら、若様、お帰りあそばせ」と粂は言った。
「只今」と彼はうるさそうに言って火鉢の傍に坐りながら平一郎を見下ろした。
「誰だえ」天野も綾子も彼等にとっては一人子であるはずのこの青年乙彦には見むきもせず、冷淡に無関心に相手にしなかった。「今度来るはずになっていた書生なのかい」と乙彦は粂に言った。「はい、大河でございます」と粂は答えた。
「君かえ、大河は?」彼の声はしゃがれたように荒《すさ》んでいた。
「僕は大河です」
「僕は乙彦だよ」彼はうっそり笑った。平一郎はこの青年が天野と綾子との子であるのかと見上げた。広い額、のび/\と隆《たか》まり拡がった鼻、濃くて逞しい眉毛、――雄偉な天野の一つ一つの相を乙彦も具えていた。ただその一つ一つが小さく、内から湧く豊かな力がなく、全体が凋びているのである。疲労したような古びた皮膚の汚ならしさと老人のような色艶を見て平一郎は、(天野の子は早老している)と想わずにいられなかった。
「もう寝るのかい」と彼は平一郎に好奇心半分らしくたずねた。
「いいえ、まだ――」
「そう――父さん、蓄音機でもやりましょうか」と乙彦は嗄れた声で言ったが、天野は微かに両眼を開いたきり答えなかった。乙彦は大きな声で、「お雪、お雪、蓄音機を持っておいで!」と次の室の女中を呼んだ。その顔は両親の冷淡と無関心に傷つけられて、ゆがんでいた。お雪という顔中吹出ものの出た女中が蓄音機を持って来た。乙彦は針をつけながら「みんなこっちへ来て聴かないか」と言った。そのうちに蓄音機は滑稽な卑俗な、噴き出さずにいられないような「裏の畑に――」の唄を春の夜の一室で歌い出した。堪らないような肉的な哄笑が隣りの女中達からはじまった。綾子は仕方なしのように、「みんなこっちへおいで」と言った。さっきから来たくてむず/\していた女達は笑うことが茶の間へ来る資格かのようにげら/\笑いながら入って来た。そうして乙彦の存在が五人の女中と蓄音機の声音とによってぼかされると、天野も綾子も時折り軽いユーモアでみんなを興がらした。
「乙彦、今度は壷坂をやるがいい」と天野も、「群衆の一人としての」乙彦に話しかけるのである。綾子はしかし終《つい》に乙彦を顧みさえしなかった。
平一郎は中途で自分の部屋へ帰った。母が彼の上京のために洗濯してくれた新しい蒲団を敷いてもぐりこんだ。茶の間からは女達の感嘆や哄笑が響
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