やし過ぎるようだ。己はお前と一緒にいるときはとても己自身の生涯の歴史を正直に静かに言えないことを幾度もの試みの後ようやく発見したわけだ。しかし己達の恋愛はもはや普通以上に深くなっていることも確実な事実と認めなくてはなるまい。いつ迄もこうして過ぎられる己達でもあるまいじゃないか。お前はどうかも知れない。己という人間が「思ったよりつまらない平凡な弱虫だったのね」とお前がいつだか言った言葉から推察しても、お前は己に愛想をつかしているかも知れない。愛想をつかされてもそれに不足を言えない己である位は承認しよう。お前はもっと強い悪党を要求していたか知れない。しかし静子、金を自分の懐へ集めることを知らない悪党もいそうもないじゃないか。己が悪党でないことは貧乏なことから考えれば一度で分ることじゃないかしら。金に眼をくれない大悪人――そんなものは随分稀にはいるかもしれないが、金が無さ過ぎるといかな大悪人もすっかりいい加減な馬鹿になるものさね。たとえ地球を爆破して人類を絶滅し、宇宙の運行に狂いを生ぜしめようと意志するほどの超人的大悪人でも金がなくては手も足も出ないで、やがて死んで行くより仕方のないものだ位はお前にも分ろう。大分黄金崇拝者じみたことを書いたね。誤解しないように、するならするでそれもよかろう。静子、己はお前にもう一度ラブレターを書くような心理状態になっているこのままで、少し書こう。己は越中の高岡の生まれだ。己は実の両親を知らない。どうして知らないか。嘘のようだがこうだ。ある豪商の一家を想像するがいい。そこに一人息子がいたのだ。年頃になって嫁を貰ったが子がないので暫くしてその嫁を離別してさらに若い嫁をめとったのだ。その時分はもうその主人の両親は死んでいない。若い嫁に一人の男の子が生まれた。その男の子が二つの春、主人は肺患で死んだのだ。若い嫁さんは二つの孤児を抱いて孤独の生涯を守るほどに貞節でも高邁の思想の所有者でも児に対する深い洞察を伴った愛をも感じていなかった。彼女は一人の男を婿入させた。先夫との間に出来た男の子が四つのとき、その嫁さんは父の異なった女の子を生んで、やがて翌年、先夫が残して行った肺患で死んだのだ。自分の児である嬰児と先夫と愛妻の子である男の子――己だ、四つの己を残された三十男の町人はどうして独りで生活出来るものかね。彼はさらに新しい嫁を迎えた。そして己は十歳までその他人である両親の手に育てられて来たのです。静子、己はまだ小さくてその時分は何とも思わなかったが、今から回想してみると随分涙を噛みしめるような事が多い。生まれて両親を持たない程の不幸は人生にないと己が思うのは、思うのが無理だろうか。両親の一方を欠くことは既にもうその生まれた子の運命が普通な円満なものでないことの証拠といってもよい、と己は思うのだ。己が十三の時のことだ。己のその第二の父が第二の母の肺患をうけついだものか、また肺で死んでしまったのです。随分堪らないことだ。己はそのときその父が本当の父でないことを知っていた。それでも随分悲しかった。本当の父もあのようにして忽然として死んで行ったのかなと考えたものだ。つまり無意識のうちに死んだ生みの父への追悼を嘘の父によって表示された「死」という実感に交えて悲しんだものとみえる。どういう心的経路をとったかははっきりしないが、己はその時から必然的に生き残っている嘘の母さんに内心独身を要求していた。独身でいないと、そのままにはすまさないぞ、というような恐ろしい力を何故か感じずにはいられなかった。己達は奥の室で母と自分と妹と三つ枕を並べて寝ることにしておったが、ある夜己はふとひそ/\した話し声に目を醒まされたものである。あの暗い闇の色、闇に聞ゆる囁き、ああそのとき子供心にも全身にしみて感じた怒りは今でも総身の血が沸《に》えくりかえるようだ。許さないぞ、この婬婦め! こう心で叫びつつ、己は慄える身体をじっと忍んでいたのだ。その次の日から己はまるでどんな些細な事であろうとも母の命ずることは一つとして服従しない少年となったのも無理とはいえまい。やがて、一人の男がさらに入婿して来たのだ。その時は己ももう十三だ。己の心では姦夫姦婦の恥しらずめ! という想いが絶えずあって、沈鬱な偏屈な子供らしくない子供と他所目《よそめ》には見えたに相違ない。己は十四の春、中学は嫌だ商業学校なら入るといって自分から主張した。己の家の婬《みだ》らな二人は己が裏をかいているとも知らず二言返事で悦んだものだ。己としては中学にはいれば高岡にいなくてはならないが、商業学校ならN港へ行くより外になかったから、一日も早く家を出たい欲求からそう主張した訳だった。己はそう頭脳の悪い人間ではなかったらしく、商業学校の試験にも及第して意気揚々と忌わしい家を出て、はじめて知らない人達の中へ出たのです。静子、己の十四のときだよ。己はそのとき同じ高岡の出身でその町で乾物問屋をしている家に下宿していたが、その家は主人と三十四、五の主婦さんだけで子がないのだ。「尾沢さんが長男でなかったらほんとに家の息子さんに貰うんだに」とよく肥った四十近い主人が言うのをかなり真面目に「なりますとも」と答えていたあの頃の己に残っていた初心さは実に涙が零《こぼ》れる。ところがだ、己が十五の秋、その壮健なとても死にそうでなかった主人が死んだのだ。主婦さんは気丈な性質だから自分で乾物屋をやるといって店を閉じなかった。静子、己は白状するが、その主人が死んだことを学校から帰って来て主婦さんに聞いたその刹那ある忌わしい関係の妄想が己の全身を痺《しび》らしたのだ。ああ、己は十五の熟しきらない童貞をその主婦さんによって破ってしまったのだ。己は一年半あまりの間に申し分のないほど三十五を過ぎた主婦さんにまるで内に沸く若さを消耗しつくした若い老爺のようにされて捨てられたのだ。悪いことか善いことか知らないが、己はその頃日本にようやく伝来しかけていたあの自然主義文学を噛りはじめていたものだ、ゾラやモウパッサンやの名を己は暗誦したものだ。そして獣欲を描いた小説に読み耽ったのだからたまるまい。己の年齢で真にそうしたものに興味を持ち得たということを己はどう考えどう泣いてよいのだろうか。己は今はもう何もそれらの過去のことに関してどうもこうも考えようがない。何もかも必然だったという想いがする。これより悪くあり得ても善くあり得そうもない己の生の踏み出しだ。とにかく己は二十歳頃迄をその頃の自然主義の文学に読み耽ったことをお前に告白する。もうその頃は学校も中途で止してしまって、田舎の新聞記者の名を知り顔を知ることを何よりの光栄とするようになってしまっていた。二十歳の夏東京へ逃げて出て申し訳のように私立の学校に籍を置いて、くだらない文学者と名のつく奴等を訪ね廻っていたようなわけ。静子、己の疲れた心身はこれだけ書いたことにもう疲労を覚えている。笑え、笑え、こんなへなちょこでも一度は大文豪を夢みたのだから人間はいじらしいのだ。笑え、笑え! ――静子、せめて国許の方の嘘の両親達でももう四、五年無事にいてくれれば。彼等は己を餓えさせる程の悪人でもないのだが、今度はまた何ということだろう、女の方が肺患で死んでしまったのだ! ついで男が幾万という財産を相場と遊蕩で蕩尽《とうじん》して朝鮮へ逃げて行ってしまったのだ! 己はもっと東京にいたかった。東京にいればやりたいことも多かった。しかし、自活しなくてはならない境遇に投げ出されてみるとそのまま東京にいることの出来ない意気地なしの己だったのさ。己は逃げ帰って、軽蔑している新聞記者となり、それも一年ばかり経つとそう軽蔑もしなくなりずる/\ひきずられてこうして二十五年の生をつないでいるのだが――己はこうしてお前に手紙を書きつつ独り自分の部屋に坐っていると、ある悲しい絶対的な厭世に迫られて来る。静子、お前にはこうした瞬間はないか。それは己達は遂に永遠の囚人でしかないということだ。人生という牢獄、世界という牢獄、ああ、たとえ宇宙が無窮無限であり、無数の星辰が無窮の時を無限の空間をめぐっているのだとしても、その無窮なる牢獄。静子、お前にはこの己の気持が分ってくれるか。物質は不滅であるそうだ。それが真理なら己はどうしよう。己のような不幸者はどうしたらよかろう。不滅! 永遠! ああこの人生が不滅でこの宇宙が永遠なら、己はどうしよう。己達は不滅に、そして永遠に無限の宇宙に繋がれた囚人でしかないのではないか! たまらないことだ。己の願いは寧ろ希わくば一切は虚無であってくれることだ! 己は死んで焼かれてしまえばそれで一切が消滅して無であってくれるように! と願うものだ。静子、己のこの叫びは無理だろうか。不滅よりも虚無を希う己だ。一切を否定してしまいたいのだ。虚無主義者さえも己にはまだ不安でならないのだ。何かが永遠であったり不滅であったりしては己は自殺することも出来ない。虚無ということもない真っ暗闇の無であってくれ! 静子、実際の心を打ち明ければ己は自殺したくてたまらないのだ。しかし己は自殺して死ぬということがもしや己の真の滅亡でなかったとしたら、という疑いが始終付き纏っていてそれが恐ろしくてぐず/\生きているのだ。死というも生というも己にはそれ程の差異があるものと感じられないのだ。ああ、己はどんなにこの世界もこの己も何もかも一切を無くしてしまいたいことだろう。しかし、もし己が死んだとする、さらに何か新しい世界、新しい己が何か違った状態で己に来はしないだろうか。それが心配でならないのだ。石塊になるのも、草木になるのも、動物になるのも、人間になるのも、神とやらになるのも何もかも己には嫌だ。ほんとに死が何も無くなるものであるということが確かめられているか。いまい。かえってもろ/\の宗教や哲学は死が真の滅亡でないと言っている。己にはそれが心配だ。己にはそれが心配で死ぬことも出来ず、毎日牢獄の一つである新聞社に通って、囚人のように働き、囚人のように飯を食い、せめては酒を飲み、くだらない文章をつづり、またお前という女とも恋らしいものをしてみているのだ。厭世的な享楽主義とでもいう奴があれば、言わしておくさ。厭世どころでないのだ。そんな「厭世」という意義からが厭でならないのだ。静子、何んだかもう書くのも厭になって来た。もう止そう。書きはじめるときはもう少し可愛い即興で書きはじめたのだが、とう/\こんなものになってしまった。おいで、せめて酒でも飲んでお前でも抱くのがせめてものことだ。せめてものことに世界中の富が欲しいね。そうして世界中の人類を買収して、地上全体に大爆発を起こして人類といういじ/\した生物だけでも絶滅するんだがね――それにしても人類がなくなればまた何か変梃《へんてこ》[#「変梃」は底本では「変挺」]なものが出て来るかも知れないね。それを想うと胸がむか/\して来るね。静子、待っているよ。お前の乳房の柔らかさを覚えているよ。ああ、絶望。死ぬことすら自由でないこの牢獄。死生の本質を一貫するこの永遠の「生命」という牢獄。さようなら。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]老いぼれた青年より

 読み終った尾沢の顔は死人のように蒼黒かった。彼はごろりと横になって頭を抱いてしょうことないように身体を揺すった。平一郎には分らないことも多かったが、厳粛な暗い精神の悩みが感じられた。そして、それが彼の今の心に嬉しかった。深井は瞳を動かさず頬を火照らして深い溜息をもらした。その様子が森厳な尾沢の苦しみを了解したもののように平一郎には見えた。戸外では嵐の前の静寂が天地をこめて透徹していた。
「尾沢さん、いないの! 尾沢さん!」
「静ちゃんかい。お上り」尾沢は寝転がったままで女の声に答えた。蒸すような青春の臭気と熱気が二階へのぼって来て、無造作に髪を束ねた額のでた豊頬の肥ったあまり美しくない若い女が、部屋へはいって来た。
「お客様? 可愛いお客様――」平一郎と深井は正しくお辞儀した。
「深井さんじゃないの。もう一人の方はどなた?」

前へ 次へ
全37ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング