音声が語ったその日の話は、微細な一言一句もはっきりと平一郎は憶えていた。
「わたしの父が七、八年前に朝鮮の公使館におりました頃でございました。ある寒い冬のことで、雪はそんなに降りませんでしたが、厳しい寒さで草木も凍ってしまっていました。ある朝、一人の日本人の卑しからぬ奥さんが、辺鄙《へんぴ》な町端れを何か御用があるとみえまして、急ぎ足で歩いておいでになりました。町の向うのすぐ近くには、赤い禿山が蜿蜒《えんえん》と連らなっているのでございました――」(ございました)と言うときの(ざ)のところで、強く揚がるアクセントは忘られないものだ。「その禿山の奥には、その頃虎が沢山住んでおりまして、時々朝鮮の方が食われたそうでございます。その奥さんが町端れへ出ますと、向うの方から何か黄色いものがのそ/\やってまいりました。奥さんは気がおつきになりませんでした。すると黄色いものが恐ろしい声で唸りました。虎なのでございました。何かよい食物がないかと虎はのそ/\町へ出かけて来たところでございました。そこで奥さんの気づかれたときと、虎の飛びかかるときとがいっしょでございました。奥さんはどうすることも出来ませんでした。奥さんはその時、奥さんの一人の子である女の子の新しい着物を持っていらっしゃいました。奥さんは自分は食われても、自分の子供の新しい着物をよごしてはならないとお考えになりまして、その着物の包みをしっかり抱きしめていらっしゃいました。虎は、奥さんの頭から食べかかりました。しかし奥さんは自分を食われている間もじっと地面にふして、まるで御自分の子供を抱くように、その包みを抱きしめていらっしゃいました。そして町の人達が鉄砲を持って集まって来ました頃は、血に染まって死んでいらっしゃいましたが、奥さんの御子さんの新しい着物だけは、奥さんの胸のところで温められて、まるで子供のようにそのままになっておるのでございました――」
「その子供が――」平一郎ははっ[#「はっ」に傍点]として直覚した。そしてその直覚が壇の上の和歌子にも伝わったのである。厳粛で、愛らしいより崇厳な和歌子の顔に、自然な微笑が現われたのである。ああ、そのひととき!
「その奥さんの子供がわたしであったと、いつも父さんが話して下さいます」
 その日の夕暮、平一郎は学校の門前で彼を待つようにしている彼女に出遭った。和歌子は微笑した。それは自然に溢れ出る微笑であった。何か言おうとすると、彼女がすた/\歩みはじめた。もうかえろう、つまらない、何んだ女のために、と思って立ち止まると、和歌子が立ち止まってじいっと彼を待つようにした。そうして和歌子が何か言いたげに振り返って立ち止まると、今度は彼が不可抗な逡巡を感じて近づき得なかった。そうしたもどかしさを繰り返しつつ、平一郎は寂しい杉垣を廻らした邸町にまで引きずられて来ていた。そして、その町の彼方に野原の見えるはずれに近い家(そこは実にかの深井の隣家であったとは!)の前で和歌子が立ち止まった。そして振りむいた時の瞳の力強さ! 平一郎は恐ろしくて傍へ寄れなかった。が二人とも笑い合ったことは笑い合ったのだが。和歌子が生垣の門内に姿をかくしたらしかったので彼は思い切って家の正面まで行った。すると彼女は門口に身をひそめて彼を待っていた。
「ここですの、わたしの家は」
 彼女は真赤になってうなずくように顎を二、三度振って、そして鈴の音のする戸を開けて家の内へはいり、もう一度うなずいて戸を閉めてしまった。ああその後の寂しさともどかしさは嘗て恋した「身に覚えある」人でなくては知るまい。森《しん》とした夕景に物音一つしなかった。彼は家々に灯の点くまで前に佇んでいたが、心待たれる和歌子の声一つしなかった。彼はその夜、郊外の野原をさまよって家に帰ったのであったが、その日から彼には和歌子という少女が、忘れられない意識の中心位を占める人間となってしまったのであった。そうして、忘れられていた小学校の時分の和歌子に関する記憶が堪らない生気をもって甦って来るのだった。熱情を瞳いっぱいに燃えさした瞳、秀でた古英雄のもつような眉、弾力に充ちてふくらんだ頬、しなやかで敏捷で、重々しい肉体のこなし方――それは十分間の休み時間における控室の隅に、または微風に揺らぐ廊下のカーテンの傍に、運動場の青葉をつけた葉桜の木蔭に、ひっそりした放課後の二階の裁縫室の戸口に、またはオルガンの白い象牙の鍵をいじくっている四、五人の少女の群の中に、到るところ、いたる時に和歌子の美しさが彼に甦り圧倒して来た。殊に平一郎が自分と和歌子との恋は実に深いものであらねばならないと考えしめたのは、朝、始業の鐘の鳴らないうちは、小学六年生である彼は同級の少年達と控室で組み打ったり相撲したりして、空しい時の過ぎゆくのを充たしていたが、平一郎はいつも三、四人の少年を相手にしてその相手を捩じ伏せるのだったが、そうした折の朝の光を透して見える和歌子の賞讃と憧憬に充ちた瞳の記憶、また運動場の遊動円木に腰かけて、みんなして朗らかに澄んだ秋の大空に一斉に合唱するとき、平一郎の唱歌に聴きいる少女(和歌子だ)、その少女にあの「いろは[#「いろは」に傍点]」四十八字の歌を唄うとき、いろはにほへと、ちりぬるを、わか[#「わか」に傍点]よたれそ、つねならむ……その「わか[#「わか」に傍点]よ」のところを一と際高く唄った心持――平一郎には懐かしく思うのは自分のみではなく、和歌子もまた自分を懐かしく思ってくれているに違いないと考えられたのだ。そうして、学校の往き来に見交わすだけでは寂しさに堪えきれず、それとなく野原をさまよい歩いては、和歌子の家の前を胸を轟かして通って来るのをせめてものことと思うようになってからでさえ、すでに一年を経ているのであった。その大河平一郎にとって、深井が和歌子の隣邸であり、「あ、お和歌さんかい」という親密さであることは大した問題でなければならなかった。
「どうしたものだろうか」平一郎は飯を食い、バナナを食ったせいも加わって、机に頬杖ついたまま考え込むというよりも苛々《いらいら》しい心持で夢みつづけていた。外界はぽか/\と暖かい五月の陽春であった。庭の棗《なつめ》の白っぽい枝に日は輝き、庭の彼方の土蔵の高い甍に青空が浸みいっている。平一郎はこうした穏やかで恵み深い外界の中で、今、自分が堪らない苛立たしさに苦しまねばならないのが情けない気がした。耳を澄ましていると、裏土蔵の向うの廓の街からであろう、三味の音がぼるん/\と響いて来る。その三味の音は平一郎に母のことを連想させた。冬子|姐《ねえ》さんの所へ行ってまだ帰らないのがまた不平で堪らなくなってくる。そうしてその底から和歌子のことがこみ上げてくる。彼は苦しくて堪らなかった。和歌子のことを想うと同時に深井のことが付き纏ってくるのだ。平一郎はまだ見習いの少女の弾くらしい三味のぼるん/\を聞きながら、自分の現在は到底母一人子一人の、他人の家の二階借りをしている貧乏人に過ぎないのだと考えた。それは分り過ぎるほど分り過ぎている事実ではある。しかもこの事実は世間的な解釈では一切の美と自由と向上とを奪われていることになるらしかったのだ。現に深井はいい家庭のお坊っちゃんである。そしてそのお邸を持っているという偶然の事実があの一年(いな、それよりももっと長い年月)以来荘厳な近寄り難いものとして来た和歌子と隣り合わせて、「ああ、お和歌さんかい」と言わしめているではないか。そうして更に考えてみれば、和歌子自身も父は今は退《ひ》いてはいるが二流と下らない立派な外交官である。とても自分などと比べものにはならない――この考えは常に平一郎にとって最も手ひどい打撃であるように、今の場合も致命的な打撃であった。自分が貧乏人であるという一事実のために、自分は自分の和歌子をただ黙して、なるがままに放って置かねばならないのだろうか。それは何ともいえない馬鹿らしい、しかも悲痛なことのような気がした。そんな訳がある筈がないという気がして来た。自分は恋しているのだ、和歌子を! この事実の方が貧乏である事実よりも更に有力で権威がなくてはならないはずだ。たとえお邸の坊っちゃんであろうとも、あの単に美少年で感情が優しいだけの深井に自分が和歌子を譲るわけは寸毫もない、と彼は考えて来た。平一郎は自分の心がどういう進み方を、どういう熱し方をして来ているかに気づかなかった。彼は常々「貧乏である」というだけのことで、世間が一切の自然な対等的な要求を踏み躙《にじ》ることを当然にしているような事実に反抗せずにはいられなかった。彼にはそれに反抗する、あの不可抗なる力を恵まれていたのだ。平一郎は長い間ぶる/\慄えながら考えていたが、もうじっ[#「じっ」に傍点]としている時でないという気がした。彼は手紙に自分の思う通りを書いて和歌子に送ろうと決心した。そうして、もし和歌子が返事をくれないか、冷淡なことをいってよこしたなら、もうあんな女一人位どうだっていい。自分は一生もう女のことは気にかけないで、その代り世界一の大偉人になってやるまでだ、という殺伐な気にさえ、彼は真剣になっていた。彼はペンでノートを切りさいた紙に書きはじめた。「小生は」と学校で習ったとおり書こうとしたが気にいらない、「私は」としても気にいらない、彼は平仮名で「ぼくは」と書きはじめた。
[#ここから2字下げ]
ぼくは大河平一郎です。あなたはきっと知っていらっしゃるでしょう。それでぼくはそれについては何も書きません。ぼくはあなたを知っています。ぼくはいつもあなたのことを思っています。苦しい程思っています。昨日も今日もぼくはあなたの家の近くを廻って歩きました。まる一年近くになります。あなたはあの小学校の談話会のことを憶えていらっしゃるだろうか。ぼくはあなたの話を今でもはじめからしまいまで暗誦することが出来ます。ぼくはあなたともっと仲よくなりたくてなりません。このままではぼくはやりきれません。あなたはどう思いますか、仲よくすることを望みませんか。ぼくは貧乏で母とぼくと二人暮しです。あなたはぼくのようなものと仲よくするのを恥だと思いますか。もしそうならそうだと言って下さい。しかしぼくは貧乏でもただの貧乏人ではないつもりです。ぼくはきっと貧乏でも偉くなります。きっとです。ぼくはあなたと仲よくしたいのです。仲よくしてくれれば、ぼくはもっと勉強します。そうして偉くなってあなたをよろこばします。どうぞ返事を下さい。日曜日の朝ぼくの家の前の電信柱のところに来ていて下さい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]大河平一郎
    吉倉和歌子様


 彼は書き終って読み返すことを恐れて、そのまま封筒に入れて大きく習字の時のように楷書で「吉倉和歌子様、親展」と書いた。すると重荷を下ろして一休みする時のような澄みわたった気持がした。それは少年ではあるが一歩踏み出したときの自己感の強味であった。同時に未知に踏み出した臆病と不安が湧かないでもなかった。彼はどうしてこの手紙を渡そうかしらと、やがて考えはじめた。明日の朝和歌子に路で会えば渡せないこともなかったが、遇うかどうかは分らなかった。今夜にでも和歌子の家の前へ行くことも会えるかどうか分らなかった。しかし彼はじっとしておれない気がした。彼は今まで脱がずにいた小倉の制服を飛白《かすり》の袷《あわせ》に着替え、袴を穿《は》いて、シャツのポケットの中へ手紙を二つ折りにして入れたまま戸外《そと》[#ルビの「そと」は底本では「そよ」]へ出た。彼は和歌子の家へゆくつもりであった。戸外はもう夕暮近くで、空には茜《あかね》色の雲が美しくちらばっていた。彼は明らかに興奮していたが、路の途中まで来ると、また深井のことが彼に迫って来た。自分は深井に対してすまないことをしている。それに深井に秘密でこの手紙をやることはいかにも卑怯で面白くないという気がしきりにした。「それに――」と彼はある自分の心の中に発見をして、「自分は深井にある友情を、和歌子とは別な、友情を感じてい
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