郎は思った。そして水色の封筒を受取った。手が慄えた。
「あとで読んで下さいましね」
「ええ」彼は言われるままにふところにしまった。
「お手紙には明日の朝と書いてあったけれど、わたし明日まで待っていられませんでしたの――それで、深井の坊っちゃまにあなたのお家を教えていただいたのよ」
平一郎は不思議な気さえして仕様がなかった。美しく、気高く、荘厳で、しかもいい家の娘で、とても自分などは一生、話さえするおりを持つことは出来そうもないという懸念を持っていた和歌子、実に、その和歌子が自分に話しかけていることを信じていいのか。
「平一郎さん」と彼女は熱情的に昂奮して来たらしかった。「あなた、あの去年の同窓会のあの時のことを覚えていて下さって? わたし、あれからも時々学校へ行って控室にかけてある卒業記念のお写真を拝見していましたのよ」
(和歌子も覚えていたのだ)平一郎は考えると嬉しくて堪らなくなった。彼も熱情をぶちまけるように昂奮して来た。
「それじゃね、それじゃね、小学校にいるときのあの鏡ね、鏡のことを覚えている?」
「覚えていますわ! ほんとに、あの校長さんが永い間話をしていて鏡をふさいでいるときには、腹が立ってしょうがなかったのですわ。そのほか、ほんとに、わたしあなたとのことならどんな小さいことでも一つ一つみんな覚えていましてよ」
「――僕だって」と彼は呟いて熱い涙が眼ににじみ出るのをこらえていた。
「昨日は深井の坊っちゃまを助けておあげなすったのですってね」
「僕う? ええ、深井君が話していましたか」
「ええ――わたしは深井の坊っちゃまからあなたの学校の様子をいろ/\随分前からきいていましたの」
「僕のことも?」
「ええ、あなたのことも。でも、そんな風はしないでですよ。あなたの級長のことも、弁論会で演説をなさったことも、野球の級《クラス》試合に出て負けなすったことも」そして彼女は堪えきれないように情熱的に笑って、ふさ/\と頬にふりかかる髪の毛を後ろへのけるように、顔をそむけて、頭を強くゆすぶった。その荘厳で深刻な美しさ。
「僕は深井君も愛します」こう彼は宣言した。
「わたしも、愛しますわ」と彼女が言った。
楢の木林の向うを痩せこけた馬が黄色な馬車をひいて走るのが、ごおっ[#「ごおっ」に傍点]という音で分った。馬車の窓に落日が血のように射していた。二人には小さい馬車の様子が哀れでもあり、おかしくもあった。
「ああ、汝旧時代の遺物たる馬車よ」こう平一郎は突然に演説口調で喋ったのが、彼自身にもおかしくて、二人は涙の出るまで哄笑した。
「あなたは母さんおひとり?」
「僕う? 僕は母ひとりきりですよ。家もないしお金だってありませんや」
「でも母さんがあって結構ですわ。わたしには母さんはないのよ」
「ああ、そうでしたね、虎に食われてなくなりなすったそうでしたね!」
太陽が没してしまったとき、二人は丘を下りて野の道を街の方へ帰って来た。路で、平一郎が和歌子の封筒のことを想い出して、懐から出して「ひらいてみようかしら」と言ったとき、「いけません、平一郎さん、いけません」と封筒を開かせまいと努めたときの彼女のひや/\した髪の感触は忘られないものである。
「明日は返事をもって来ますよ」
「ええ、きっとですよ」
二人は坂をのぼりつめた十字街で別れた。平一郎はもっと言わねばならぬ重大なことを一つも言わなかったような気がした。それが何であったかを反省すると、まるで頭脳が空虚だった。それは「混沌たる充実の空虚」であった。
夜、彼は自分の机に書物を展《ひら》いた上に水色の封筒をのせて、惜しい気のするのを思い切って、封を切った。
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今日わたしは学校から帰って庭に出てあなたのことを考えていました。今日はどうしてか学校からの帰り道でお会いしなかったのが気が悪くて仕方がございませんでした。すると隣りの深井の坊っちゃんがわたしをよびなさったのです。
わたしは何もかも存じております。ほんとうにわたしはすみません。でもわたしにはどうしてよいか分らなかったのでございますもの。ほんとにわたしはあなたのあれ[#「あれ」に傍点]でございます。わたしは今、うれしくてじっとしておれないのです。わたしは仲よくしていただきたいのです。でもわたしはそんなに仲よくしていただけるのかしら。
気がせいて思うことが書けません。母は(わたしのほんとの母ではありませんのよ)じきに何をしているかのぞきに来ますのです。平一郎さま、わたしは今、あなたに会いたくてならなくなりました。今夜はわたし眠られないでしょう、きっと。以前も眠られないときはあなたのことをいつも思っておりましたのよ。あなたは御存じないかも知れませんが、わたしはよく深井の坊っちゃまからあなたのことを承っておりました
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