のだ! ついで男が幾万という財産を相場と遊蕩で蕩尽《とうじん》して朝鮮へ逃げて行ってしまったのだ! 己はもっと東京にいたかった。東京にいればやりたいことも多かった。しかし、自活しなくてはならない境遇に投げ出されてみるとそのまま東京にいることの出来ない意気地なしの己だったのさ。己は逃げ帰って、軽蔑している新聞記者となり、それも一年ばかり経つとそう軽蔑もしなくなりずる/\ひきずられてこうして二十五年の生をつないでいるのだが――己はこうしてお前に手紙を書きつつ独り自分の部屋に坐っていると、ある悲しい絶対的な厭世に迫られて来る。静子、お前にはこうした瞬間はないか。それは己達は遂に永遠の囚人でしかないということだ。人生という牢獄、世界という牢獄、ああ、たとえ宇宙が無窮無限であり、無数の星辰が無窮の時を無限の空間をめぐっているのだとしても、その無窮なる牢獄。静子、お前にはこの己の気持が分ってくれるか。物質は不滅であるそうだ。それが真理なら己はどうしよう。己のような不幸者はどうしたらよかろう。不滅! 永遠! ああこの人生が不滅でこの宇宙が永遠なら、己はどうしよう。己達は不滅に、そして永遠に無限の宇宙に繋がれた囚人でしかないのではないか! たまらないことだ。己の願いは寧ろ希わくば一切は虚無であってくれることだ! 己は死んで焼かれてしまえばそれで一切が消滅して無であってくれるように! と願うものだ。静子、己のこの叫びは無理だろうか。不滅よりも虚無を希う己だ。一切を否定してしまいたいのだ。虚無主義者さえも己にはまだ不安でならないのだ。何かが永遠であったり不滅であったりしては己は自殺することも出来ない。虚無ということもない真っ暗闇の無であってくれ! 静子、実際の心を打ち明ければ己は自殺したくてたまらないのだ。しかし己は自殺して死ぬということがもしや己の真の滅亡でなかったとしたら、という疑いが始終付き纏っていてそれが恐ろしくてぐず/\生きているのだ。死というも生というも己にはそれ程の差異があるものと感じられないのだ。ああ、己はどんなにこの世界もこの己も何もかも一切を無くしてしまいたいことだろう。しかし、もし己が死んだとする、さらに何か新しい世界、新しい己が何か違った状態で己に来はしないだろうか。それが心配でならないのだ。石塊になるのも、草木になるのも、動物になるのも、人間になるのも、神とやらになるのも何もかも己には嫌だ。ほんとに死が何も無くなるものであるということが確かめられているか。いまい。かえってもろ/\の宗教や哲学は死が真の滅亡でないと言っている。己にはそれが心配だ。己にはそれが心配で死ぬことも出来ず、毎日牢獄の一つである新聞社に通って、囚人のように働き、囚人のように飯を食い、せめては酒を飲み、くだらない文章をつづり、またお前という女とも恋らしいものをしてみているのだ。厭世的な享楽主義とでもいう奴があれば、言わしておくさ。厭世どころでないのだ。そんな「厭世」という意義からが厭でならないのだ。静子、何んだかもう書くのも厭になって来た。もう止そう。書きはじめるときはもう少し可愛い即興で書きはじめたのだが、とう/\こんなものになってしまった。おいで、せめて酒でも飲んでお前でも抱くのがせめてものことだ。せめてものことに世界中の富が欲しいね。そうして世界中の人類を買収して、地上全体に大爆発を起こして人類といういじ/\した生物だけでも絶滅するんだがね――それにしても人類がなくなればまた何か変梃《へんてこ》[#「変梃」は底本では「変挺」]なものが出て来るかも知れないね。それを想うと胸がむか/\して来るね。静子、待っているよ。お前の乳房の柔らかさを覚えているよ。ああ、絶望。死ぬことすら自由でないこの牢獄。死生の本質を一貫するこの永遠の「生命」という牢獄。さようなら。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]老いぼれた青年より

 読み終った尾沢の顔は死人のように蒼黒かった。彼はごろりと横になって頭を抱いてしょうことないように身体を揺すった。平一郎には分らないことも多かったが、厳粛な暗い精神の悩みが感じられた。そして、それが彼の今の心に嬉しかった。深井は瞳を動かさず頬を火照らして深い溜息をもらした。その様子が森厳な尾沢の苦しみを了解したもののように平一郎には見えた。戸外では嵐の前の静寂が天地をこめて透徹していた。
「尾沢さん、いないの! 尾沢さん!」
「静ちゃんかい。お上り」尾沢は寝転がったままで女の声に答えた。蒸すような青春の臭気と熱気が二階へのぼって来て、無造作に髪を束ねた額のでた豊頬の肥ったあまり美しくない若い女が、部屋へはいって来た。
「お客様? 可愛いお客様――」平一郎と深井は正しくお辞儀した。
「深井さんじゃないの。もう一人の方はどなた?」

前へ 次へ
全91ページ中65ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング