見たときの嬉しさはお光に一生忘られないものの一つであった。
「兄さん、俊太郎さんの船が見えましてよ」
「おう。そうらしいね」兄もさすがに嬉しそうに立ち上がった。兄の唯一の親友であり、兄との内面的交渉の深い、常に兄を光明的に力づけている俊太郎であることを知っているお光は、そうした場合兄以上に嬉しかった。ああ、漫々たる大海原を白鳥のように乗り切って来る愛すべき奴よ! 船首に翻る真赤な旗の間から船頭の逞しい裸体の動作が見え、やがて船首が海岸の方へ真正面に向き変った。お光達には腕を拱《こま》ぬいて立っている大河俊太郎の姿がはっきり見えた。兄はたまらないように「おうい」と叫んだ。
「おうい!」弾力のある俊太郎の声が海の微風に送られて響いて来た。
 やがて船の進行が止まって新しい錨がぎらり青い光を閃かして海に投げ入れられた。海は新しい船を軽々と白鳥のように浮べたままゆらりゆらり波をうねらせていた。海上に下された一艘の伝馬が俊太郎を乗せて近づいて来た。
「よう、ありがとう」
「おう」と俊太郎と容一郎の手を握り合った瞬間、容一郎の眼には涙がにじみ出ていた。
「わざ/\すまなかった。お光さんも来て下さって!」という簡素な言葉と真から懐かしげにしげしげ見下している清らかな黒目勝ちな眼には、兄妹に対する明るい愛が現われているのをお光は知った。
「いい景気だったよ! とても松前の景気を見て来るとこの辺は死んでいるようなものだあね」睫毛をしば/\させる俊太郎の細身に見える程に引きしまった筋肉を日はたら/\と照した。容一郎は見上げるようにして、
「いい船だ、思ったよりいい船だね」と言った。
「どうしてしっかりしている。佐渡の近くで不意な暴風にでっくわしてもびく[#「びく」に傍点]ともしなかったっけ――どうも暑い! 船へ行こう。船上は帆の影で涼しい」
 容一郎は黙っていた。俊太郎はお光に尋ねるように、「またふさぎ[#「ふさぎ」に傍点]の虫がついたのじゃないかな。それとも学者らしく納まったのかね、え」そうは言ったが、眼色は心からの心配と友情を表わしていた。お光はそれが嬉しかった。
 やがて三人は伝馬に運ばれて新しい船に乗り移った。新しい木の香がすが/\しかった。俊太郎は甲板を踏みならして、「面倒くさいことがあったらここへ来るといいですよ。支那へでも南洋へでも君を乗せて行って、君はここで好きな本を読んでいたらいいじゃないかね。海の上へ出ると気がまたからりと換《かわ》るものだから」そして「おおい! ここへ茣蓙《ござ》を敷いて、栗の罐詰と酒を持って来てくれないか」と彼はどなった。主檣《メインマスト》の周囲の空所に三人は坐りこんだのだ。お光は半ば恐ろしく半ば壮快に見渡す大海原を眺めていた。すると兄が「実はさっきから地球は今廻っているのだと考えていたので」と言って笑った。船頭が酒をもって来た。お光は兄と俊太郎に酌をしつつ、ほがらかな幸福を感じていた。二人ともそんなに飲める方ではなかった。
「くよ/\するのは無理もありません。しかしそのくよ/\にもくよ/\がありますよ。ひょっと考えてみりゃぁ天地は広大ではないだろうか。君の真価値をそんなに誰でもが知ったらそれこそ迷惑さ。君の身体は弱い。君の容貌はなる程醜い。しかし君の内なる魂の偉大はそうしたものを内から輝かしているはずだあね」
(君の身体は弱い、君の容貌は醜い)と兄の前ではっきり言い得るだけの人間は俊太郎一人であった。お光はそうした瞬間には俊太郎に親身の兄のような愛を感じた。そうして事実彼は綾子の夫として将来彼女の兄となるべき筈でもあった。
「それは淋しくて切ないことだ。しかし、それは既にどうにもならない自然の運命。恨むのはいいが、恨むことに囚われて自由な路を見失うのは愚だ――君の親爺はどうして君を愛さないものか。ただ君の内なる親爺自身を見出すのが辛いから、自分を恐れて君につらく無情らしくあたるのに相違ないのさ。それよりか己の親爺と来たら、ほんとに考えても涙がこぼれる。酒は飲む、博奕は打つ、ああ己が七つ八つの時分から朝の暗いうちから起きて飯を焚いて、味噌汁をこしらえて、それから親爺様御飯が出来ましたと言って起こして行くまで床にいて起きなかったのだからね。勿論己の嘗《な》めて来た苦しみと君の嘗めなくてはならぬ苦痛とはまるで本質が違うことはちがう。君のは何と言ったらいいだろう――前世の業だね!」お光はぴりりと神経にこたえたが、兄は存外しずかに、罐詰の栗を、「うまい」と言って食べた。
「うまいだろう。この沖合で君と一杯やろうと思って用意して来たのだから。この沖へ来たときには大きい男の胸がわく/\したからね! ――それはそうとこの頃何を読んでいるのかね。この前会ったときはダアウィンの進化論で己を煙に捲いていたっけが」
「この頃は
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