ういうものかこのことがあってから、お光が二階の一室で仕事をしていると、時子やお幸や富江や菊龍が不安な、慰めて貰いたいような顔をしてお光の傍へやってくるようになった。お光はいつもの静かな穏やかな涙を湛えての平和な気持で女達に接せずにいられなかった。冬子も忍ぶようにやって来た。仕事部屋の窓からとなりの社の境内の杉の青葉が日に輝いて見えるのを二人は黙って永い間見ていることもあった。本当にこの茂子の発狂と小妻の死に次いでじきに、新聞紙によって重きいたつき[#「いたつき」に傍点]を伝えられていた明治天皇の崩御がなかったなら、春風楼の人々は「呪われて」おかしなものになったかも知れない。
西暦一九一一年七月、日本をして世界的に偉大ならしめた時代の代表者が崩御されたのである。小妻の死は春風楼の人以外には知られなかったが、天子の崩御は全国民、並びに日本が生活に深くくいいっている程度で、全世界の人にある感動を与えた。春風楼の女達もこの崩御によって小妻の死と茂子の発狂とからくる妙な恐ろしい感情を紛らすことが出来た。
「ほんとにお前、人間の寿命ほどあやぶいものはないのだね」と女将は言った。
帝王の尊い御位にいます御方といえども自然の運命には打ち克たれないことの現実が人々の胸に明白にしみいったのである。帝王といえども寿命定まれば死ぬより外に道はない。人間は死ぬ生物であることの真理があまりに分りきった真理であるだけに、忘却しつくしていた人々の胸に今はじめて知った新しい真理のように響き渡ったのである。ほんとに死ぬ時が来れば死ぬより外に仕方のない自分達人間だ、と思わずにはいられなかった。しかし、こうした純粋な実感を真に独創的に表現し、実感を基礎に思索を深めてゆく能力を奪われている我が民族であった。しかしそれにしても全国の家々の軒に黒色の喪章を付けた国旗が掲げられ、路ゆく人の胸部や腕部に黒い喪章を見かけるとき、人々はさすがに哀しかった。一国の最高権威として無上の尊貴をおいたその上御一人でさえも死の前には全然無力であったことは悲しい感情をよび起こした。国民的憂鬱、無論その憂鬱の底には、半世紀に足らぬ時間で急激に吸収した西洋文明の消化しきれない臭気が、物質主義的な荒《すさ》みとなって勃発しかけているせいもあったろう。
廓もしばらくの間に寂《さ》びてしまった。広い路に立並ぶ宏壮な屋並には、喪章に掩われた国旗がどんより澱んだまま動かずに垂れていた。三味の音も鳴物の響も聞えなかった。ただ真夏の強烈な日光がじり/\と照りつけて、この人間の弱小を静かに見下ろしているような圧迫を与えた。春風楼もめっきり寂びて来ていた。女将でさえが、夏の身体のどうにも持ちようのない昼など、よくお光のこつ/\仕事をしている六畳の部屋へ何ということなしにねそべりに来た。杉葉の緑蔭を受けてこの家では一番涼しいお光の部屋は昼寝をするによかったせいもあろうが、そればかりとも言えないものがあった。お光は、自分の十数年来の生活のゆえに、崩御のことに対しても、静かな哀しみを感じこそすれ、今更のように驚く必要は少しも感じなかった。それは死に対する用意が無意識のうちに出来あがっているためであろうか。彼女は心底から「おいたわしいことでした」と思った。そしてあきもせずこつ/\縫物の針を真面目に運ばせた。真夏の濃緑と烈日が彼女にある圧迫を与えたが、静かな彼女の心はそっ[#「そっ」に傍点]とその圧迫をやりすごしていた。
「ほんとに今年の夏は嫌なことばかりが多い」女将は青い眉あとの目立つ顔に、仰山らしい表情を浮かべてよくお光に言った。お光には何故かどんな人間でも甘えてみたいような気を起こさす穏やかな温かさが漲っていた。
「ほんとうにね、どうなってゆくのでしょうかね」お光は、そう言って、静かに仕上の鏝《こて》をあてた。廓の不景気がもっと四、五日早く来てくれたなら、そうしたら茂子や小妻も助かったかも知れない。茂子や小妻がああした残酷な死にようをしないで生き残っていたら、どれほどこの不景気なこの稼業《しょうばい》の暇を悦んだか知れまい。――悦ぶであろうと思われる二人はすでに死んでしまった。もう晩《おそ》い、おそい、とお光は考えて、涙ぐんだ。
しかし一方、お幸や時子や菊龍や富江や鶴子には、暗い人気の少ない夜、酒に酔いしれない夜、男の膚《はだ》の温か味に眠らない夜を迎えることは一種の苦痛であった。アルコール中毒患者が、アルコールの気の感じないときは半死の状態にあるように、彼女等は一種の苦痛を伴ったぼんやりした倦《だ》るさに苦しめられた。
「随分つまらないじゃないの」
「もう三晩もつづけてぼんやりこうしているのじゃなくって、ほんとうに人を馬鹿にした」
「時ちゃん、××さんに電話をかけてお招《よ》びな」
「あたしも――ちゃんを招
前へ
次へ
全91ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング