した深い夜の光沢、冷やかで柔らかく吸いつくような初夏の微風の肌ざわりの夜がめぐり来たのである。白日の太陽の下に照されては、瘠せ細った骨格、露わな肋骨、光沢のないもつれ毛、血色の悪い蒼白な肉身も、夜の無限な魅力のうちに、エレキの白光に照らし出されては、一切は豊潤な美とみず/\しさを現わすのである。くろぐろと宝玉のような光輝をもつ黒髪も美しければ、透明で白い肉身の膚に潮のように浮かぶ情熱の血の色も美しい。軽やかな水色、薄桃色、藤紫色の色彩に包まれた肉体の動揺の生み出す明暗の美しさを何にたとえようか――時は午後九時であった。普通の民家では夜も更けかける時分ではあるが、この家、この街では今ようやく「昼が明け」かけた頃である。[#「である。」は底本では「である」]
 春風楼の茶の間の大きな古代青銅の鉄瓶に白い湯気が旺《さか》んに立って、微妙な快い音が鳴っていた。そこに坐っている女将の、夕方洗ったままの束髪に、単衣に黒繻子の帯を軽く巻きつけた清い単純な姿が、青ずんだ眉あとと共に洗煉された美しさを現わしている。楼主は廓の事務所の用事で外へ出ていなかったので、彼女は帳面を調べたり、客帳に夕方浅く酌み交わして直ぐに帰った二人連れの客の名をつけたりした。職業は会社員だと言ったが、様子から会話の模様からが教育のある学校の先生だと彼女はにらんでいた。帰りがけに、「じゃ九月、また会いましょう」と二人が言い合ったことが何よりの証拠だと彼女は思った。
「さっきのお客ね、たしかにあれは高等学校の先生だよ」と彼女は、彼女の前に坐っている女達に話しかけた。電光の光線の一条一条に白熱したぴり/\する神経を宿しているような電光をあびて、部屋の中央に茂子と時子と菊龍とお幸が十字形に向い合っていた。
 冬子は宵からある大川|縁《べり》の大きな料理屋へ招ばれてまだ帰って来なかったし、富江と市子米子の二人の舞妓は賑やかな遊びの好きな、県会議員で、素封家で、羽二重商で知られている男の座敷に招ばれていなかった。鶴子は明朝までの約束で出かけてしまっていた。お幸と時子はさっきの二人づれの客が風采の好いのを見て、そのとき電話で招びかけて来た座敷を断わって出たのだが、お客は静かに酒を酌させるだけで愛想一つ言わずにじきに帰ってしまった。お幸と時子はそれが不快で不平であった。
「ほんとにわたしあんなお座敷へ出るんじゃなかった、つまらない」と時子が答えた。お幸は細口の金の煙管《きせる》にゆっくり煙草を填めて、ゆっくり鼻から、格好のよい円味を帯びたすぐれた鼻から、紫の閃きのある煙をすうっと吐き出した。煙は彼女の活々した顔面を洗うように昇ってゆく。ふっくらと重厚さを見せたいちょう[#「いちょう」に傍点]にゆった髪が彼女の容貌を異常に強烈に生気あらしめている。彼女は時折下の眼縁と鼻の根本のところに皺をよせて、擽《くすぐ》ったい顔をした。(彼女は静かに坐っている暇に、数知れぬ男を、浮いた恋で欺した記憶に伴う滑稽な、いかに男が馬鹿であるかをまざ/\表わしたような場面を想い起こしていつもくすぐったい顔をするのだ。)そして時々、金と銀の平打の簪《かんざし》で頭を小刻みに掻いた。時子は時子でこうしているつまらなさを種々な取りとめもない淫奔な妄想にすごしているらしかった。顔を動かす度に、顔が紫色に光り、口紅の濃い色が鬼のように大きく濡れて光る。
「もう何時なの」時子は菊龍に訊いた。菊龍は眠気がさして困っていた。坐っていると結い立ての島田髷が重苦しく、根本から頭の髄が重い鉛玉でも乗せたようにしかまってくる。すると身体全体が溶けるような倦怠と痛みを覚えて、無意識な昏迷に引きずり入れられようとする。白光はうつむきがちな彼女の頸のきめの粗いざら/\した白粉膚に紫光を放って反映した。
「菊ちゃん、居眠りなんかして不景気じゃなくって!」
「はあっ?」菊龍は顔をあげて、
「まだ九時すぎだわ」と言った。
「なんだか今夜は暇じゃないの」
「だって、まだ時間も早いんだわ」
「さっきはほんとに馬鹿馬鹿しかった。ほんとうに」
「だって、時ちゃんはまだいいわ。わたしはまだ何処からも言って来やしないわ」
「菊ちゃんはこの間から嫌という程招ばれたからいいじゃないの」
「ま、またあんな悪いことを言うのよ」
 菊龍は眠気で動かない顔面の筋肉を不器用にゆがめて笑った。それを見て情けない、嫌あな顔をするのは茂子だった。彼女はうつむいて、小さな莨盆の小さな赤い火をみつめていた。(こうした夜、こうして閑であることは、ああ何というかけがえのない恵みであろう!)彼女にとっては客席に出て男に接することは苦痛である。その苦痛を堪え忍ばねば生きてゆけない彼女である。彼女には夜は呪わしいものであった。(昼とても彼女には悦びをもたらしはしなかったが。)彼女は輝いた
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