よいよ顔がほてって胸が鳴ってきた。満蔵はそれ以上を言う働きはないから急いで米を搗きだす。政さんはいよいよ興がって、
「こりゃわかんねい。そこまで満蔵さんに見られちゃア、とにかく省作さんはおごるが至当だっぺい。うん人の女房《にょうぼ》だって何だって、女に惚れられっちは安くない、省作さん……」
兄はまさかそんな話の仲間にもなれないだろう、むずかしい顔をしている。政さんは兄の顔に気がついて、言いだした話を引っ込ませかける。突然囲炉裏ばたの障子があいて母が顔を出した。
「満蔵」
「はあ」
「お前、今おとよさんの事を言ったねい」
「はあ」
満蔵はもうたいへんな事になったと思ってか、色青くして目がはや潤んでる。
「お前どんなことを見たかしんねいが、おとよさんはお前隣の嫁だろ。家の省作だってこれから売る体じゃないか。戯言《じょうだん》に事欠いて、人の体さ疵《きず》のつくような事いうもんじゃない。わしが頼むからこれからそんな事はいわないでくろ」
「はア」
満蔵はもう恐れ入ってしまって、申しわけも出ない。正直な満蔵は真から飛んだ事を言ってしまったとの後悔が、隠れなく顔にあらわれる。満蔵が正直あふれた無言の謝罪には、母もその上しかりようないが、なお母は政さんにもそれと響くよう満蔵に強く念を押す。
「ねい満蔵、ちょっとでもそんなうわさを立てられると、おとよさんのため、また省作のため、本当に困ったことになるからね。忘れてもそんなことを言うてくれるな。えいか」
「はア」
事はまじめになって話は火の消えたようになった。するとうわさを言えば影とやらで、どうやらおとよさんの声がする。竈屋《かまや》の裏口から、
「背戸口から御免くださいまし」
例の晴ればれした、りんの音《ね》のような声がすると、まもなくおとよさんは庭場へ顔を出した。にっこり笑って、
「まあにぎやかなこと。……うっとしいお天気でございます。お祖母さんなんですか。あそうですか、どうもごちそうさま」
今まで唯一の問題になっていた本人が、突然はいってきたのだから、みんな相顧みて茫然自失というありさまだ。さすがの政さんも今までお前さんのうわさをしていたのさとは言いかねて、一心に繩をなうふうにしている。おとよさんはみんなにお愛想をいうて姉のいる方へ上がった。何か機《はた》の器具を借りに来たらしい。
やがて芋《いも》が煮えたというので、姉もおとよさんといっしょに降りてくる。おおぜい輪を作って芋をたべる。少しく立ちまさった女というものは、不思議な光を持ってるものか、おとよさんがちょっとここへくればそのちょっとの間おとよさんがこの場の中心になる。知らず知らずだれの目もおとよさんにあつまる。
顎《あご》のあたりゆたかに艶《つや》よきおとよさんの顔は、どことなく重みがあった。随分おしゃべりな政さんなぞも、陰でこそかれこれ茶かしたようなことを言っても、面と向かってはすっかりてれてしまって戯言一つ言えない。おはまは先におとよさんが省作に気があるというのを聞いて、自分がおとよさんと一層近しくなったような心持ちで、おとよさんの膝にすり寄っておとよさんの顔を見上げている。省作はわざと輪からはずれて立って芋をたべてる。政さんはしきりにおとよさんの方をぬすみ見て、おとよさんが省作に対する動作に何物かを発見せんとつとめているけれど、政さんなんかに気取られるようなそんな浅々しいおとよさんではない。おとよさんは省作へはちらと目をくばる様子もない。やがておとよさんは、今夜は早く風呂ができるから入りに来てくれるようにと、お祖母さんはじめみんなへ言うて帰った。
昼過ぎても雨はやまない。満蔵は六斗の米を搗き上げてしまって遊びに出た。あとは昼前の通りへ清さんも藁を持ってやってきた。清さんがきて見れば、もうおとよさんのうわさもできない。おはまを相手に政さんがらちもなき事をしゃべってにぎやかしてる。省作は考えまいとしても、どうしても考えられてならない。考えてると人にそう思われてはいよいよ困るから、ことさらにらちもない話に口を出して、腹は沈んで口では浮いてるように振る舞ってるけれど、そういうことは省作の柄でないから、はたで見てるとよほどおかしい。
おとよさんがおれを思ってる、本当かしら、夫のあるおとよさんが、そんなことはありゃしまい。おとよさんは何もかもきちんとした人だ。おいらなどよりもよほど大人だもの。おれを思ってるなんてうそだ。うそだ、うそに違いない。第一本当であったらおとよさんは見掛けによらず不埒《ふらち》な女郎《めろ》だ。いやそんなことがあるもんか。うそだ。うそだうそだと心で言うほど、思いあたる事が出てくる。おとよさんがおれに親切なは今度の稲刈りの時ばかりでない。成東《なるとう》の祭りの時にも考えればおかしかった。この間の日暮れなどもそうっと無花果《いちじく》を袂《たもと》へ入れてくれた。そうそうこの前の稲刈りの時にもおれが鎌で手を切ったら、おとよさんは自分のかぶっていた手ぬぐいを惜しげもなく裂いて結わいてくれた。どうも思ってるのかもしれない。
考え出すと果てがない。省作は胸がおどって少し逆上《のぼ》せた。人に怪しまれやしまいかと思うと落ち着いていられなくなった。省作は出たくもない便所へゆく。便所へいってもやはり考えられる。
それではおとよさんは、どうもおれを思ってるのかもしれない。そうするとおとよさんはよくない女だ。夫のある身分で不埒な女だ。不埒だなア。省作はたしかに一方にはそう思うけれど、それはどうしても義理一通りの考えで、腹の隅の方で小さな弱々しい声で鳴る声だ。恐ろしいような気味の悪いような心持ちが、よぼよぼした見すぼらしいさまで、おとよ不埒をやせ我慢に偽善的にいうのだ。省作はいくら目をつぶっても、眉の濃い髪の黒いつやつやしたおとよの顔がありありと見える。何もかも行きとどいた女と兄もほめた若い女の手本。いくら憎く思って見てもいわゆる糠《ぬか》に釘《くぎ》で何らの手ごたえもない。あらゆる偽善の虚栄心をくつがえして、心の底からおとよさんうれしの思いがむくむく頭を上げる。どう腹の中でこねかえしても、つまりおとよさんは憎くない。いよいよおとよさんがおれを思ってるに違いなけりゃ、どうせばよいか。まさかぬしある女を……おとよさんもどういう了簡《りょうけん》かしら。いやだいやだ、おとよさんがいくらえい女でも、ぬしある女、人の妻、いやだいやだ。省作はようやくのこと、いやだいやだと口の底で言いつつ便所を出たけれど、もしも省作がおとよさんにあって、おとよさんのあの力ある面《かお》つきで何とか言い出されたら、省作がいま口の底でいう、いやだいやだなんぞは、手のひらの塵を吹くより軽く飛んでしまいそうだ。省作は知らず知らずため息が出る。
省作が自分の座へ帰ってくると、おはまはじいっと省作の顔を見て何か言いたそうにする。省作はあわてて、
「はま公、芋の残りはないか。芋がたべたい」
「ありますよ」
「それじゃとってくろ」
それから省作はろくろく繩もなわず、芋を食ったり猫《ねこ》をおい回したり、用もないに家のまわりを回って見たりして、わずかに心のもしゃくしゃを紛らかした。
四
夕飯が終えるとお祖母《ばあ》さんは風気《かぜけ》だとかで寝てしもた。背戸山の竹に雨の音がする。しずくの音がしとしとと聞こえる。その竹山ごしに隣のお袋の声だ。
「となりの旦那あ、湯があきましたよ」
「はあえ――」
おはまが竈屋《かまや》から答える。兄夫婦は湯に呼ばれていった。省作は小座敷へはいって今日の新聞を見る。小説と雑報とはどうかこうか読めた。それから源氏物語を読んだが読めればこそ、一行も意義を解しては読めない。省作は本を持ったまま仰向きにふんぞり返って天井板を見る。天井板は見えなくておとよさんが見える。
今夜は湯に行かない方がええかしら。そうだゆくまい。行かないとしよう。なに行ったってえいさ。いやいや行かない
方がえい。ゆくまいというは道徳心の省作で、行きたい行きたいとするのは性欲の省作とでもいおうか。一方は行かない方がえいとはいうけれど、一方では行きたい行きたいの念がむらむらと抑え切れない。
もしおとよさんが、こっそり湯端《ゆぶち》へきて何とか言ったらどうしよう。こう思うと気味が悪くて恐ろしくて、腹がわくわくする。省作はまた耳がほかほかしてきた。行かない方がえいなア。あアゆくまいゆくまい。こう口の底でいうて見る。ゆきたい心はかえって口底にも出てこず、行きたいなどとは決していわないが、その力は磐石糊《ばんじゃくのり》のように腹の底にひっついていて、どんなことしたって離れそうもしない。果てはつかれてぼんやりした気分になってると、
「省作省作、えい湯だど。ちょっともらっておいで。隣でも待ってるよ」
姉が呼ぶのに省作は無意識に立ってしまった。もうなんにも考えずに、背戸の竹山の雨の暗がりを走って隣へいってしまった。
湯は竈屋の庇《ひさし》の下で背戸の出口に据えてある。あたりまっ暗ではあれど、勝手知ってる家だから、足さぐりに行っても子細はない。風呂の前の方へきたら釜の火がとろとろと燃えていてようやく背戸の入り口もわかった。戸が細目にあいてるから、省作は御免下さいと言いながら内へはいった。表座敷の方では年寄りたちが三、四人高笑いに話してる。今省作がはいったのを知らない。省作は庭場の上がり口へ回ってみると煤《すす》けて赤くなった障子へ火影が映って油紙を透かしたように赤濁りに明るい。障子の外から省作が、
「今晩は、お湯をもらいに出ました」
「まア省作さんですかい。ちとお上がんさい。今|大話《おおばなし》があるとこです」
というのは清さんのお袋だ。喜兵衛《きへえ》どんの婆さんもいる。五郎兵衛《ごろべえ》どんの婆さんもいる。七兵衛《しちべえ》の爺さんもいた。みんな湯に入ってしまって話しこんでいるらしい。だれか障子をあけて皆が省作に挨拶する。清さんは囲炉裏のはたにごろねをしていた。おとよさんだけが影も見えず声もしない。よいあんばいだなと思う心と、失望みたような心が同時にわく。湯は明いてますからとお袋がいうままに省作は風呂場へゆく。風呂はとろとろ火ながら、ちいちいと音がしてる。蓆蓋《むしろぶた》を除けて見ると垢臭い。随分多勢はいったと見える。省作は取りあえずはいる。はいって見れば臭味もそれほどでなく、ちょうど頃合《ころあい》の温かさで、しばらくつかっているとうっとりして頭が空になる。おとよさんの事もちょっと忘れる。雨が少し強くなってきたのか、椎の葉に雨の音が聞こえてしずくの落つるが闇に響いて寂しい。座敷の方の話し声がよく聞こえてきた。省作は頭の後ろを桶の縁へつけ目をつぶって温まりながら、座敷の話に耳をそばだてる。やっぱりそのごやごやした話し声の中からおとよさんの声を聞き出そうとするような心も、頭のどこかに働いている。声はたしかに五郎兵衛婆さんだ。
「そら金公の嬶《かかあ》がさ、昨日《きのう》大狂言《おおきょうげん》をやったちでねいか」
「どこで、金公と夫婦げんかか、珍しくもねいや」
「ところが昨日のはよっぽどおもしろかったてよ」
「あの津辺《つべ》の定公《さだこう》ち親分の寺でね。落合《おちあい》の藪《やぶ》の中でさ、大博打《おおばくち》ができたんだよ。よせばえいのん金公も仲間になったのさ。それをだれが教えたか嬶に教えたから、嬶がそれ火のようになってあばれこんだとさ」
「うん博打場へかえ」
「そうよ、嬶のおこるのも無理はねいだよ、婆さん。今年は豊作というにさ。作得米《さくとくまい》を上げたら扶持《ふち》とも小遣いともで二俵しかねいというに、酒を飲んだり博打まで仲間んなるだもの、嬶に無理はないだよ」
「そらまアえいけど、それからどうしたのさ」
「嬶がね。眼《め》真暗《まっくら》で飛び込んでさ。こん生《いけ》畜生め、暮れの飯米《はんまい》もねいのに、博打ぶちたあ何事《なにごっ》たって、どなったまではよかったけど、そら眼真暗だから親父と思ってしがみ
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